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September 30 映画 『ブッデンブローク家の人々』(2008) トレーラー2008年12月25日公開予定の映画 『ブッデンブローク家の人々』 のトレーラーです。
『ブッデンブローク家の人々』は、すでに過去3度映画化されています(1923年、1959年、1979年 [ただし79年のものはテレビ映画] )。根強い人気のようです、トーマス君のこの小説。ところでところで、4度も映画化された小説って、外にあるんでしょうか?
(グーグル先生に相談中)
調べてみたら、ありました! 乱歩の『屋根裏の散歩者』!! ちょwwwwww でも知らなかったー。マジ、一本も観たことないです、不覚です、反省します、いや、でも、べつにそんな、そういう趣味はないんです、ホントです、だってそもそも、やりたくったって、今そういう造りの住まいじたい、すげー少なくなってきてるじゃないですか。が、がは。 September 29 CANのビタミンCを摂取ドイツのロックバンド、CAN のビタミンCを摂取すると、体にとってもいいのです。コチラ。歌ってるのは、ダモ鈴木(日本人です)。こういうのを真のヒッピーっていうんだろうなあ。ともあれ、これだけは言わせてくんろー。
ヤキ様のドラムはガチ。
2002年だったか、ボンに住んでいたころ、たまたまNILG というバンドのメンバーの一人と知り合いになった。で、ドイツのロックっていろいろ聴いてみたいんだけど、どれから始めればいいかぜんぜんわかんないんだよね、どうよ?って訊いたら、数日後、やいたCDをくれた(その後、彼はそれはそれはキレイな台湾の女の子と結婚して、いま台湾に住んでいる)。それは、その手の音楽(ドイツのアヴァンポップ的な)をうまく寄せ集めてくれたものだった。WORKSHOP の音楽もかーなーりー気に入ったのですが、衝撃をうけたのが、CANのI'm so green という曲。く、こ、これが72年の音楽だと!? それ以来のおつきあい、みたいな。
(だからってべつに緑の党のシンパとか、そういうことではまったくないです、念のため) September 28 『森鴎外と日清・日露戦争』への書評について朝日新聞・書評欄に、末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』への書評が出ている。その内容には愕然とさせられる。それはこう書き出されている。
> 日清・日露戦争の時代は、ヨーロッパでは「世紀末文化」の時代 >であった。その魅力は多くの人を引き付けている。だが、そのほと >んどは「芸術のための芸術」を目指し、社会から「逃避」したもの >であった。ヨーロッパの「文化」が戦争と平和といった社会問題へ >の対応の姿勢を「転換」したのは、ロマン・ロランに見られるよう >に第1次世界大戦が契機であった。前線と銃後を区別しない「総力 >戦」が「転換」を余儀なくしたのである。
まるでヨーロッパの文化が、大戦によって初めて眠りからさめたかのような書き方である。評者の文学史には、ゾラやイプセンといった名は存在しないらしい(その我が国への紹介者こそ鷗外に外ならなかったのだから、これはもう致命的である)。そもそも、第一次大戦こそが初めて「戦争」の何たるかを人間に撃ち込んだのであり、それ以前には「戦争と平和といった社会問題」などという観念じたい存在しなかったと考えるのが普通である。 それにしても、著者は正気なのか。
>著者は「直接的であれ間接的であれ、文学者は戦争に直面したとき、 >最も根源的に文学者たるゆえんを問われる」という。なぜなら「戦 >争は、無条件で個人に国家の意志に服従することを求めて」きて、 >そのために「個人が国家と対峙(たいじ)し、優越性を主張しよう >とすることで成り立つ文学の根底」が否定されかねないからである。 >この観点からすると、森鴎外は日清・日露戦争に軍医とはいえ指導 >的立場でかかわったことで、「文学者たるゆえんを、最もシビアー >な形で問われた文学者であった」。
戦争によってみずからの根底を問われるのは文学者だけなのか。国民すべてが根底から揺すぶられる事態をこそ、戦争と呼ぶのではないのか(それゆえに「希望は戦争」という言葉も吐かれうるのである)。それに、鷗外が生涯にわたって自分を「文学者」とはみなしていなかった(みなせなかった)ことは、鷗外研究によらずとももはや常識であって、『妄想』、『なかじきり』にそれは書いてあることだ。 いやそれでも「文学者たるゆえんを、最もシビアーな形で」問いたい、と言うのなら、その問いは鷗外にではなくて、漱石や荷風に向けるべきだろう。というのも、山崎正和が『鷗外―闘う家長』で書いているように、鷗外の苦慮は、漱石や荷風とちがって、「個人が国家と対峙(≠敵対)する」という文学者としての当たりまえの条件を共有できなかった点にあるのだから。つまり、個人の「優越性を主張しようとする」ことで文学を成り立たせることができなかった所に、鷗外の特殊性はあるのである。 書評はさらにこうつづいている。
>本書は、この日清・日露戦争時における森鴎外の書いたテキストを、 >公的なものから私的な書簡にいたるまで広く読み込んで、鴎外の戦 >争への姿勢を分析したものである。結論的には、著者は、鴎外が、 >「戦争そのものの構造的『悪』と非人間的な現実を見据え、戦争と >戦争を遂行する国家の『悪』を暴き、批判することを避けてしまっ >た」という。しかし、本書の大部分を費やして分析されているこの >時期の鴎外のテキストのなかで、私的な文章においては折にふれて、 >戦争を批判する「非戦」の声がわずかにせよ記されていることを著 >者自身が指摘している。
だが、戦争=悪という思考停止からいくら大量のテクストを読みこんだところで、出てくるものはたかがしれている。著者は戦争を「非人間的な現実」であるという(ならば人間的な現実とは何だろう?)。ところが、いざ戦争が起きたばあい、とたんに現実を肯定しだすのは、きまってこの型の人間、自己麻酔人間である。この本がこうして>朝日新聞<で紹介されるのも、納得がゆく。 鷗外はどのように生きざるをえず、その作品はどのように書かれざるをえなかったか、鷗外研究は膨大といえど、未だに手ごたえを得られないでいる。にも係わらず、この著者にとって、そして評者にとってもまた、そんなことはどうでもいいらしい。彼らの関心は、鷗外が戦犯だったか無罪だったかをみずからのさじ加減で測ることにしかない。書評はこう締めくくられる。
>著者は[中略]、鴎外は1910年の「大逆事件」以来の厳しい言論 >下において、歴史小説と史伝において国家と戦争を相対化する文学 >者としての道を歩みえたのだという。こうした鴎外の「抵抗」にも >かかわらず、一般的に言って日本の「世紀末文化」は、社会から >「逃避」する道を歩むことになった。その後、第1次世界大戦で >「漁夫の利」を得た日本では、「文化」が自己転換をするのは第2 >次世界大戦後を待たねばならなかったのだ。
こうして、鷗外は「なんとなく」非戦のひとへと回収ないし矮小化されてしまう。ともに1942年生まれの著者と評者は、まるで日本の文化が第二次大戦後はじめて眠りからさめたかのように考えている(第一次大戦後の世界のパワーバランスの大変化によって、日本が「漁夫の利」どころか方向感覚を完全にうしなったことも、そして大東亜戦争後の転換が「自己転換」どころか、GHQにあからさまに強いられた転換だったことも、もはや常識であるにも係わらず)。そこには戦前のマルクス主義も日本浪漫派も、ましてや近代の超克もなかったことになっている。自分たちこそ覚醒した人間だという思いあがりがなければ、鷗外へのこのようなアプローチは不可能だったはずだ。鷗外以後の日本文学が社会から逃避したというが、逃避しなかったらどうだというのか。そもそも、「逃避」でないような文学など可能なのか。社会を改良しようとする善意主義ほど、文学から程遠いものはない。 鷗外研究者は、このような「鷗外以前」の鷗外論を全力でつぶしにかかるべきである。でなければ、「文学」はますますみくびられることとなるだろう。 September 27 筒井康隆の抜刀術 ― 時をかける少女の世界コミュニケーション
時かけ! Das Mädchen, das durch die Zeit sprang のトレーラーです。日本は、セカイ・コミュニケーションで対抗せよ。 「世界コミュニケーションとは、時間をとらえるために空間を放棄することである。空間の意義が減少していることは、何よりも、コミュニケーションのネットがますます交通のネットから解放されつつあることを見れば、明らかであろう。世界社会[ワールドワイドになった社会]は、もはやどこかの場所に関連させることができない。ますます不足してゆく時間だけが、物を言う。すべての問題が、一時的なものとされることによって解決される。至急、緊急、スピードアップ、期間限定といったことが、現代の大きなテーマなのだ。」 ノルベルト・ボルツ 『世界コミュニケーション』 (村上淳一訳) より September 26 佐藤亜紀、もしくは『精神現象学』をよむ長門有希ドイツやオーストリアを舞台に小説を書くことが多い佐藤亜紀ですが、じしんのHP(ただし更新はとまってるみたい)で、20世紀のベスト! と銘打って、50ほど小説をあげてます。ドイツ文学もけっこうあがっていて、参考になりますね。ココ。
にしても、『バルタザールの遍歴』でおかしかったのが以下の箇所。
「毅然としたまえ。君の好きなニーチェだろう、女の所に行く時、鞭を忘れるなと言ったのは」
「ニーチェなんてただの馬鹿よ」とマグダが叫んだ。「少し根性の据わった女なら、鞭を奪って、堪忍してくれと言うまでぶちのめしたでしょうね。それが分かっているから、ニーチェは女に近付かなかったのよ」
ベスト! で思い出したんだけど、「長門有希の100冊」には、ドイツ文学が一冊もふくまれていない・・・orz 関連ということでいっても、わずかにヘーゲルの『精神現象学』があがっているだけ。ハルヒの続編、そして「長門有希の200冊」を切に希望。 September 25 探偵フロイトよく知られているように、ドイツ文学(ドイツ語圏)には探偵小説の歴史がない。推理小説の伝統がない。そんななかにあって光を放っているのが、フロイトによる奇書、『モーセと一神教』である。 モーセを殺したのはいったい誰か!? そしてその動機とは!? はっきりいって、そこらへんにあるミステリーなんかより断然おもしろい。ナチスとの対決のために書かれたなんて言ってる人もいるみたいだけど、本当にそうか。探偵フロイトが大活躍する本として読んだほうがよほどいい気がする。 どこかで福田和也が『赤と黒』はスパイ小説なんだといっていた。そういう視点のきりかえによって、一冊の本がぐっと読みやすく、そして楽しめるようになる。だから、断言しよう。『モーセと一神教』は、フロイトの探偵小説である。 September 24 ドイツ映画祭2008今年もドイツ映画祭が開催されるようです。
『クラバート - 謎の黒魔術』
『ノース・フェイス - アイガー北壁』 『クララ・シューマンの愛』 『HANAMI』 『ベルリンDJ』 『ウェイブ - あるクラスの暴走』 『耳のないウサギ』 『巨人ゴーレム』 『カリガリ博士』 10月31日から11月3日まで、新宿バルト9にて。 September 21 追加(シノドス シンポ 1968)みなさんこんにちは。ドイツはもうだいぶ寒くなってきました。これからはどんどん暗くなるので(ドイツ名物、ずばり冬!orz )、こうなったらもう陰鬱に哲学するしかありません。
さて、きのうお知らせしたシンポジウムについてですが、アルファ・シノドス最新号の巻頭コラムで、主催者である芹沢一也氏はつぎのように書いています。1968とは何だったか、ではなく何になりうるか、ってところがカッコいいですね。
>さて、来たる9月23日、みなさまへの感謝の意も込めまして、立教大学
>との共催シンポジウム、「1968+40 全共闘もシラケも知らない若者た
>ちへ」を開催いたします。イマヌエル・ウォーラーステインによるなら
>ば、これまで二度、世界は〈世界革命〉を経験しています。一度目は18
>48年にヨーロッパを巻き込んで起こった革命。そして、二度目が1968年
>革命です。日本での1968年革命、全共闘運動から、今年はちょうど40年。
>そこで「1968+40」と銘打って、これまでシノドスにお招きしたゲスト
>の方々と、〈68年〉について考えてみようということになりました。
>テーマは〈68年〉なのですが、もちろん昔話をしようというわけではあ
>りません。昨今、日本でもぽつぽつと回顧本が出版されていますが、多
>くは当事者しか共感できないような内輪話に終始しています。しかしな
>がら、そのような閉塞感は、何よりも解放をこそ志向した〈68年〉に、
>もっともふさわしくないものでしょう。シノドスのシンポジウでは、
>〈68年〉は何だったのかではなく、何になりうるのかというスタンスか
>ら、〈68年〉の可能性をめぐって議論をしたいと考えています。
芹沢一也氏の著作:
『“法”から解放される権力』(新曜社、2001)
『狂気と犯罪』 (講談社プラスアルファ新書、2005)
『ホラーハウス社会』(講談社プラスアルファ新書、2006)
『犯罪不安社会』(光文社新書、2006)
『フーコーの後で』(慶應義塾大学出版会 、2007)
『時代がつくる「狂気」』(朝日新聞社、2007) September 20 シノドス シンポ 1968September 19 ヨゼフ・フォークル×ハンス・ウルリヒ・グンプレヒトヨゼフ・フォークルとハンス・ウルリヒ・グンプレヒトが、アメリカ文化について話しています。チアリーダーの意味、アメリカの笑いの文化について。コチラ。荒くまとめると・・・
チアリーディングというのは、ポルノ的というより、女の子たち自身による(あるいは家族・社会が要求する)コマーシャル的な場である。つまり、男たちがじしんの(結婚の)相手として品定めできるべく、彼女らは自分の価値を「展示する」のであり、そのための場であると。一種の品評会として機能しているのではないか、というのがひとつ。
もうひとつのテーマは、アメリカ人の謎に満ちた「笑い」。フォークルは、たいへん印象に残っているものとして、広島に投下されることになる原爆に記念としてサインするパイロット(乗組員)たちが、そのとき笑みを浮かべているのをうつした写真をあげる。この「笑い」はなんなのか、と。アメリカ文化にくわしいグンプレヒトはこれに応えて、べつに彼らは戦後、なんの良心の呵責もなく生きれたわけではない、彼らはただ、自分たちのこれからすることがどれだけ大きな意味をもつことになるかをその時点ではまだ知らなかった、云々。ここでビデオは終了。 September 18 太宰治と『道徳の系譜』人間は、みな、同じものだ。
これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆(うじ)がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧(わ)いて出て、全世界を覆(おお)い、世界を気まずいものにしました。 この不思議な言葉は、民主々義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於(お)いて醜男(ぶおとこ)が美男子に向って投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬(しっと)です。思想でも何でも、ありゃしないんです。 けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主々義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです。メフィストだって、こんな無茶な放言を、思想とすりかえるなんて芸当は、さすがに良心に恥じて、躊躇(ちゅうちょ)したかも知れません。 人間は、みな、同じものだ。 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」 なぜ、同じだと言うのか。優(すぐ)れている、と言えないのか。奴隷(どれい)根性の復讐(ふくしゅう)。 けれども、この言葉は、実に猥(わい)せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦(かん)せられ、努力は嘲笑(ちょうしょう)せられ、幸福は否定せられ、美貌(びぼう)はけがされ、栄光は引きずりおろされ、所謂「世紀の不安」は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです。 太宰治 『斜陽』 より
貴族的人間が自分自身に対する信頼と公明とをもって生きるのに引き換え(中略)、<ルサンチマン>をもった人間は、正直でもなければ無邪気でもなく、また自分自身に対する誠実さも率直さももたない。彼の魂は横目を使う。彼の精神は隠れ場を、抜け道を、裏口を好む。すべての隠されたものが、彼の世界として、彼の安全として、彼の慰安として彼のお気に入りだ(中略)。差し当たり卑下し謙遜することを心得ている。こういう<ルサンチマン>をもった人間どもの種族は、必ずやついにはいかなる貴族的種族よりもより怜悧になる(中略)。彼はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、更にもう一つ「善人」を案出する――これが自分自身なのだ!・・・・・・
ニーチェ 『道徳の系譜』 より (木場深定訳) September 17 キットラー、アマゾン・キンドルについて語る内容は、ちかいうちヨーロッパでも発売されるであろうキンドルを一足早くつかってみたキットラーの、「試用レビュー」といったおもむきです。まあ、こういう新しいメディアに対して拒否反応をしめしたり、あるいは過剰に歓迎したりすることの陳腐さをよくしっているのが彼であるはずなので、「ニュー・メディアにキットラーはどのような洞察をしめすのだろうか!?」みたいなことを記事に求めるのはムリがあるでしょう。じっさい、記事は軽妙洒脱なことば遊びにみち、「メディアで/を読む」ことの快楽は変わらないよ、ということだけを伝えようとしているようにおもえる。
にしても、日本でもキンドルが発売されたら、そのときはまたぞろ紙媒体の優越性を説いて回るようなどーでもいいヤツが出てくるんだろうな・・・。電子辞書のときもそうだった。「ページめくって汗かいてしらべたことこそが、記憶にのこるんだ!」みたいな。はァ?
こーゆーどーでもいい保守主義って、まじでウザい。車が発明されたからといって、自転車が滅びたわけではないし、近くのコンビニに車でいく人などいない。それで済む話である。 September 16 法水、シュニッツラーで語る!「ああ、今日の君はロバチェフスキイ(非ユークリッド幾何の創始者)だよ。いかにも、天狼星(シリウス)の最大視差(マキシマム・パララックス)が計算されたのだから!」
「いや、その功労なら、シュニッツラーに帰してもらおう」法水はすこぶる芝居がかった身振をして、「不在証明(アリバイ)、採証、検出――もうそんなものは、維納(ウインナ)第四学派以後の捜査法では意味はない。心理分析(プシヒョアナリーゼ)だ。犯人の神経病的天性を探ることと、その狂言の世界を一つの心像鏡として観察する――その二点に尽きる。ねえ支倉君、心像(ゼーレ)は広い一つの国じゃないか。それは混沌(ダス・カーオス)でもあり、またほんの作りもの(ヌール・キュンストリッヘス)でもあるのだ」とシュニッツラーを即興的に焼直したのを口吟(くちずさ)んでから、彼は一つ大きな伸びをして立ち上った。 小栗虫太郎 『黒死館殺人事件』 (1934年) より
法水が引用しているのは、シュニッツラーの戯曲 『広い国』 (1911年) の一節ですね。つーか、『ドグラマグラ』と『黒死館』はぜひとも英語に訳して、世界の度肝をぬいてやってほしいですね。 September 15 ケールマンを測量する!代表作『世界の測量』が世界的ベスト・セラーとなったダニエル・ケールマン(1975年生まれ)ですが、この若手作家に、いよいよアカデミックな関心がはらわれるようにもなってきました。
独文の世界では有名な文芸誌、text + kritik誌(かなりカタめの雑誌です)でも、第177号(2008年1月)はケールマンにあてられていたわけですが、ここヴッパータール大学では、まもなく始まる冬学期の授業のひとつとして、「ダニエル・ケールマンの小説」というゼミが開かれます。マティアス・マルティネス教授のゼミです。これまでに発表された彼のすべての小説(5作)をあつかうらしい。
もちろん、注目度のたかさを利用した「客寄せ」的なねらいも多少はあるんでしょうが、それにしても純文学と娯楽商品の境界がいぜん強固なここドイツにおいてこのようなかたちで取り上げられるということは、もうそれだけで、ケールマンに対する評価が相当なものだということをうかがえるように思います。
そのシラバスもいちおう引っぱっておきまーす。
Daniel Kehlmann ist in den letzten Jahren als einer der interessantesten und erfolgreichsten Erzähler der jungen Generation hervorgetreten. Seine Romane gestalten philosophische Probleme auf spezifisch ästhetische Weise. Im Seminar werden alle bislang veröffentlichten Romane dieses vielseitigen Autors besprochen. Seminarteilnehmer müssen folgende Texte Kehlmanns zu Semesterbeginn gelesen und in den Sitzungen vorliegen haben (alle Titel sind als Taschenbücher erhältlich): - Beerholms Vorstellung (Frankfurt a.M. 2000 [1997]) - Mahlers Zeit (Frankfurt a.M. 1999) - Der fernste Ort (Frankfurt a.M. 2001) - Ich und Kaminski (Frankfurt a.M. 2003) - Die Vermessung der Welt (Hamburg 2005) September 12 古典新訳文庫 フロイト『幻想の未来』僕は『池袋ウエストゲートパーク』いらい堤幸彦のファンで、この夏も『20世紀少年』を堪能してきたわけですが、いちばん好きなものはと訊かれたら、『トリック』ということになります。
『トリック』は、秘密結社や奇術師(あるいはカリオストロのような)をめぐる問題を意識させずにはおかないのですが、このドラマの眼目はなんといっても、宗教と科学、もっといえば、宗教によって復讐される科学、というところにあると思います。
仲間由紀恵と阿部寛は、新興宗教が支配するムラにのりこんでいって、科学的にトリックをあばき、説明してみせる。このパターン自体は単純です。だけど堤幸彦は、最後に僕たちを、ある問いのなかに放置する。
それは、なにかを(病的に)信ずることと、現実を(合理的に)知ること、はたしていずれがより大きな幸福を約束するのか? という問いです。
仲間由紀恵と阿部寛によって実態をあばかれた団体の幹部が、いまや幻想をとかれて嘆く信者たち、また途方にくれる信者たちを指さして、次のように言うシーンがあります。あなたたち(仲間由紀恵と阿部寛)の説明はたしかにそのとおりだ。だが、彼らを見てみろ。彼らを救うことができたのはあなたたちか? 私たちではなかったのか?
事態をややこしくしているのは、信者の皆が単純に「騙されて」いたわけではない、ということです。ようするに彼らの中には、自覚的に、すすんで騙されようとした人たちがいる、ということです。科学的に正しいこと、つまり夢から覚めてあることが、救いや幸福をもたらすわけではない。それを彼らは知っている。知っているから「あえて」信仰にむかうのだともいえる。
だとしたら、「あなたたちは騙されているんです! 目を覚ましてください!」と言うことは、茶番いがいのなにものでもない。『トリック』の随所に埋め込まれた笑いを完成するのは、このような茶番劇の笑いであって、それは乾いた、いくぶん深刻な笑いです。深刻であること自体が滑稽であるような笑いなのです。
まとめると、こういうことになります。すすんで幻想を生きることと、幻想から覚めてあること、どちらが正しいということは僕たちにはできない。どちらを選ぶべきかを知っている者など、どこにもいないということです。
ならば僕たちは、そのあいだで宙づりにされたまま、ニヒリズムにおちいるしかないようにみえる。救済なき世界に、啓蒙は無力なのだから。
そんなことを考えていたときにフロイトの『幻想の未来』を読んでとても興奮したのを、僕はまだよくおぼえています。フロイトはこのインタビュー形式の論文で、ニヒリズムにも、また安易な指南にもおちいることなく、いかに「幻想=宗教=集団神経症」をかいくぐるかの可能性を、ギリギリのところまで考え抜いている。
もちろん、フロイトは救済者になることも治療者になることも拒んだ人であり、したがってとうぜん、こうすればよい的なはっきりとした解決がそこに書かれているわけではない。だけれども、そこにある思考の跡から、僕たちは確実に、こういう声を聞くことができる。世界は二つだけでは足りない。宗教と科学、そしてあともうひとつ、なにかが必要だ、という声が。
それを読んで感じていただければと思い、この本を紹介することにしました。 September 11 若きテルレスの悩みSeptember 10 戦線復帰ドイツにもどってきました。さっきケルンからの列車のなかで、新刊の『リアルのゆくえ』(東浩紀・大塚英志)を読んでいたら、となりのドイツ人がめずらしそうに、「上から下に読むんですか?」ときいてきたので、「しかも右から左へですよ」と付け加えておきました。するとかえってきた言葉は「Wahnsinn!」←(すごいっすね、くらいの意)でした。そうかあ、すごいのか、と、そのまま流してしまうほど長旅でつかれていたので、きょうはもう寝まする。ではー。 September 04 独文学者(?)がシノドスに
来たる7日(日)に開かれるシノドスのセミナーですが、ゲストは、あの『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)で知られる高田里恵子さんです。独文出身の方ですが、幅広く活動されていますね。ご本人が書かれた今回のセミナーの概要もとてもユカイかつ魅力的なので(ココ!)、ぜひ参加してお話をうかがってこようと思います。 |
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