Wuppertal's profile エルバーフェルト日記PhotosBlogLists Tools Help

Blog


    July 31

    「ルーマン、システム理論を語る」

     
    みなさんは、シノドスをご存じでしょうか? これは、ひとことでいえば、大学からも出版業界からも独立した、あたらしい知の交流スペースです。社会学者・芹沢一也氏が主催しています。ちょっと覗いてみよう! とにかく本を読むのが好きな方、また思想とか言論に興味のある方、まずは気軽にセミナーに参加してみて、知の最前線に触れてみてはいかがでしょうか? 参加者の声をHPから引用してみるのです。
     
    「何よりも少人数で落ち着いた雰囲気がとてもよかったです。総じて、セミナーの方向性が「アクチュアルな問題をいかに考えるか」という点で一貫していたので、私はとても好感がもてました。」
    「社会人になると本を読む暇も無くなってしまい、久しぶりに知的刺激を頂いた感じです。今を時めく著名人とカフェの距離感で話すことが出来るのはとても貴重な体験だと思います。」
     
    で、シノドスはセミナーのほかにも色んなこころみをはじめていて、たとえばメルマガ「アルファ・シノドス」。これは本当にいいですよ。月2回配信で、まさに新書のボリューム。これで500円は安い・・・。僕なんかは読む本などがどうしても偏りがちというか、自分の考えたいことしか考えないというだらしない傾向があるのですが、こうして定期的に配信してもらうことで、いま知らないところでこんなことが問題なのかとか、そんな人がいるのかとか、なんてこった、そんなオモシロそうな本もあるのかと、目からウロコが5000枚です(ごめん)。
     
    まだまだあるよ! あたらしく始まった「トランシノドス」! ここに、ルーマンがシステム理論について語った動画がUPされてるんだけど、なんと日本語字幕つき! こういう翻訳作業もすすめてゆくようです。楽しみにしましょう。
    July 30

    民族の祭典

     
    オリンピックが近いようなので、リーフェンシュタールの映画『オリンピア』第一部、「民族の祭典」のごく一部を。
     
    その1・・・各国の入場行進(日本含む)。圧巻はやはり開催国ドイツ。
    その2・・・ヒトラーの開会宣言。

    ストライキが日常の国 VS 自殺者年間3万人の国

     
    ルフトハンザのストライキで、きょうは70の便が欠航した。週末にむけて欠航は増加する。スト側にしてみれば会社の「稼ぎ時」を狙い撃ちするのはとうぜんで、けっきょくはこのようにして、労働者の権利の行使とやらは労働者自身にはねかえってくる(客の多くは夏休みで観光地へ飛ぼうとする労働者なのだから)。
     
    でもいちばん迷惑するのは外国人。それも、「ストライキ? それって美味しいの?」ってくらいストライキとは無縁のニッポンからきた人間にとっては、これはもう蛮行にひとしい。むろん、こっちの人間からすれば、ストライキがないような国こそ、野蛮で「後れた」国ということなのだろう。
     
    こういう事態を前にするとき、とりうる態度はおおきくいって三つある。
    1・・・・・被雇用者がこうしてふつうに権利を行使できるってすばらしい! 弱者が声をあげられるって、進んでる! と西洋にかぶれてみる。
    2・・・・・法的権利はあるのに、でもストライキなしで世の中がちゃんと回ってる日本ってやっぱすばらしい! と日本に★ときめいて★みる。
    3・・・・・ドイツがいいとか日本がいいとかいってもはじまんなくねェ? どっちも一長一短じゃん? と、してやった風にメタ厨をきめこむ。
     
    でもじつはこれ、日本の思想の問題でもあるのでは。つまり、ヨコ軸にみると、1→マルクス主義、2→保守、3→一連の「批評家」であり、タテ軸でいうと、1→モダン、2→ポストモダン、3→ゼロ年代というふうにみれないかな? かな?
    July 28

    ストライキ男

     
    きょう(28日)からルフトハンザがストライキをはじめた・・・僕はちゃんと日本に帰れるのだろうか? 去年もドイツ鉄道のストライキにおおあたりしてエライ目にあった・・・フランクフルトで・・・なんでこう運がいいのだろう。今回にしても、仮に飛んだとしても、整備工とかだってストライキをおこしているわけだから、テキトーな整備のせいでプーチン・ロシアに不時着ということもありえる。ロシアならまだしも、チェチェンとかは勘弁してほしい。どうせなら日本海に墜ちたい。竹島まで泳ぐどー。
    July 27

    夏の一冊 ハイネ『流刑の神々』

    götter im exil
    夏の一冊ドイツ編は、ハイネ『流刑の神々』です。神話の神々・土着の神々が、中世キリスト教によっていかに駆逐・抑圧されていったかが記述されています。柳田國男が読んだことでも有名で(たとえば『不幸なる芸術』を参照)、ハイネ入門としても最適だとおもいます。前回の宮本常一とセットでと考えて民俗学でつなげただけなので、どうして夏の一冊なんだと言われると困るけど、でもハイネの機動力の高さ、そこからは、ひやっとする批評の風が吹きつけてくる。
     
    じしん「流刑」の身にあったハイネが、身をやつした神々に自己像をみいだす、と、そんなふうに読んでしまうとひとつの涙ぐましいストーリーができあがるけれども、そうしたストーリーにつねに「うわっ、それさぶいよ」と退屈を感じていたのがハイネであるはずです。だから、彼の文章にはつねに遠心力がはたらいている。それは、紋切型へむかって中心に集まろうとするものたちを「笑う」力です。そして実際にハイネを引用して、この笑いに抑圧の解除をみようとしたのがフロイトでした(その意味でバフチンのカーニヴァル論もフロイトの抑圧理論のもとにあります)。
     
    最後にひとつ。たとえば舞城王太郎の小説『バット男』には、一神教と多神教について、決定的な記述がある。神ではなく、神々をいつくしむハイネや舞城王太郎が、「笑い」というものに天性の感覚をもっていることは、理由のないことではないのです。

    夏の一冊 宮本常一『家郷の訓』

    家郷の訓
    夏の一冊、きょうは日本編。宮本常一の『家郷の訓』です。舞台が宮本常一の「家郷」山口県大島であり、ここは夏が美しくて、瀬戸内海を思いながらこれを読むのはちょうどよいと考えて、この一冊に決めました。時代も明治・大正が背景で、距離があるので夏の読書にはよいでしょう。たいへん丁寧なことばで書かれているので、面白い小説のようにぐんぐんと読めます。なのにひとつひとつの光景は忘れない。良書のあかしでしょう。そもそもこの本はもう、タイトルの時点で勝っている。ふるさととか、郷里とか故郷とか、いろいろことばはあるけれど、家郷ということばほど、背筋ののびた響き、字面をもつものはない。訓(おしえ)についてもまったくおなじことがいえると思います。『民俗学の旅』や『忘れられた日本人』もいいけれど、僕はだんぜん『家郷の訓』を推す、なぜなら、じぶんが生まれ育ったところの民俗について書くことが、ほんとうは一番むつかしいはずだからです。
    July 26

    ルートヴィヒ・リヒター

     
    人文社会系の新刊情報を幅ひろく流してくれる<ウラゲツ☆ブログ>さんのところで、『グリム兄弟 メルヘン論集』(法政大学出版局)が出ることを知りました。収録論文は・・・
     
    「古い伝説の一致について」(ヤーコプ)/「伝説と詩および歴史との関係についての考察」(ヤーコプ)/「民衆詩の収集に関する回状」(ヤーコプ)/「昔話の本質」(ヴィルヘルム)/「伝説の本質」(ヤーコプ)/「動物寓話の本質」(ヤーコプ)/「妖精案内」(ヴィルヘルム)/「アイルランド南部の妖精伝説と伝承」(ヴィルヘルム)/「スコットランド高地人の俗信と祝祭娯楽」(ヴィルヘルム)/「短編物語、昔話および伝説におけるシェイクスピアの典拠」(ヴィルヘルム)/「パンチャ・タントラ」(ヴィルヘルム)/「ペンタメローネ」〈バジーレ〉」(ヤーコプ)/「ペロー童話集」(ヴィルヘルム)/「イギリス、スコットランド、アイルランド」(ヴィルヘルム)/「ロシアの昔話」(ヤーコプ)/「スペインの昔話」(ヴィルヘルム)。
     
    ・・・とのこと(以上引用)。下は、画家ルートヴィヒ・リヒターによる、グリム・メルヒェンへの挿絵です。おばあさんが子供たちに物語してきかせてあげていますね。こうした「語りのまどい」のことを、ドイツ語で、Erzählrunde といいます。
    ludwig richter
    July 25

    どないやねんなドイツ語

     
    とつぜんですが、ドイツ語での時刻の表現について。独和大辞典には、<drei Viertel auf fünf>で<4時45分>と出ている。5時にむかって45分たっている、ということだろう。
     
    これにしたがえば、<Viertel auf Zehn>は10時にむかって15分たっている、ということだから、<9時15分>のはずだろう。
     
    じつはこの<Viertel auf Zehn>、ある小説のなかに出てくる表現なんだけど、しかしここに編集者の註があって、<9時45分>のことだと書いている。
     
    あ゛?
     
    わざわざそうやってことわるからには、<9時45分>が正しいのだろう。つまりこの場合、10時めがけてあと15分ということになる。
     
    だったらはじめの<drei Viertel auf fünf>は、5時めがけてあと45分、つまり<4時15分>にならなければおかしい。
     
    でも常識からいって、5時めがけて「あと45分」なんていうしちめんどくさい言い方をするとは思えない。はじめから<nach>をつかって4時から15分すぎた、といえばすむ。
     
    メダパニ。
     
    そもそも、auf ぬきの<drei Viertel fünf>だって<4時45分>である・・・独和大辞典がまちがっているのか?
    July 24

    砂漠のキツネ ロンメル

      
    映画『砂漠のキツネ』(1951)のトレーラーです。
     
    デスモンド・ヤング原作で、僕は原作の方をさきに読んだんだけど(ハヤカワ文庫)、映画のほうが出来がよいとおもふ。とまれ、黒鉄ヒロシが、ロンメルというひとは義経のように、物語が要求するあらゆる要素をそなえていると言っていた。至言だとおもう。
     
    それにしてもいい加減訳されなければならないのは:
  • Erwin Rommel: Infanterie greift an. Voggenreiter, Potsdam 1937
  • Erwin Rommel: Krieg ohne Haß. Hrsg. von Lucie-Maria Rommel u. Fritz Bayerlein. Verlag Heidenheimer Zeitung, Heidenheim/Brenz 1950
  • ところでロンメルは25(26?)歳でプール・ル・メリットに輝いており、すごいと思っていたら、エルンスト・ユンガーは22(あるいは23?)歳でとのこと。はー。

    カフカのリストカット

     
    さいきん福田和也のカフカ講義を聞いていて、近頃の辞書には「断食芸人」と引いてものっていないが、これはでもカフカのでっちあげではなくて、昔はほんとうにそういう芸人が存在したんだという話を紹介していた。でもなんのことはない、小学館の独和大辞典にはちゃんと「Hungerkünstler」はのっている・・・。
     
    まあそれはいいとして、カフカの『断食芸人』である。有名だし短いから、読まれた方は多いとおもう。ちょうど今日のFAZに『断食芸人』についてのエッセイが掲載されていた。今年はカフカ生誕125年だから、それでFAZもカフカについてのエッセイをリレー方式で連載しているのである。つまり執筆者は毎回ちがう。
     
    断食芸人は、食べるという基本的な儀式を共同体とわかちあうことをしない――この指摘はおっ、と思った。カフカにおいて「食べること」がひとつの重要なテーマというかモチーフだということはよく言われるが、そういえば、カフカの小説でたったひとりで食事しているシーンって、あまりない気がする。必ずだれかがいっしょじゃないですか?
     
    でも問題なのは、断食芸人はべつに一人になりたいから断食するのではなくて、むしろまったく逆だということ。彼は自分の芸をみて、みんなに「おー!」とか「うわっ」とか「むむっ」って言ってほしい。「彼は食欲がないから断食するのではなくて、食欲がものすごいからそうするのである」。
     
    いくら食べたって、どうせまたお腹はすくじゃないか。儀式を、愛を、快をわかちあったって、どうせまた生贄は必要とされる。どうせ愛は満足しない。快のためには不快が前提されていなければならない。だったら欠如した状態(Hunger)を、欠如したままに生きてみるとどうなるか。しかし観客はやがて断食芸人にも飽きてしまう。
     
    橋が寝返りをうつ! どうせそのうち断食芸人にもお腹いっぱいになってしまうのである! なにかここに、この話の肝があるような気がする。満足を究極まで絶ったとしても、何かがえられるわけではない。そもそも何かを得てしまったとしたら、そのとき彼はもう「断食」芸人ではない。
     
    リストカットは、自殺しようとしてそうするのではない。まったく逆で、切らなければ生きていけないのである。それはおそらくマゾヒスティックな行為ともぜんぜんちがう。もう一度、引こう。「彼は食欲がないから断食するのではなくて、食欲がものすごいからそうするのである」。
    July 23

    マティアス・ヘフスはネ申

     Matthiashoefsklein
    ドイツの金管アンサンブル、ジャーマン・ブラスのマティアス・ヘフス(Tp)は、僕がもっとも尊敬する音楽家のひとりです。彼の演奏は、北ドイツの香りがします。リューベック出身にも納得。うんうん。バッハのごく一部をここ(音のみ)で聴くことができます。いいね!と思った方はぜひこちら(動画)もどうぞ。
    July 20

    鷗外の「きれいな熱情」

     
    僕は森茉莉を一冊も読んだことがないまま、笙野頼子の『幽界森娘異聞』を読んだのだった。不幸な出会いというとあれだけれども、正直これはよくわからなかった。そこでの森茉莉には魅力を感じなかった。それでそのままになってしまった。
     
    でも最近、幸運にもつぎのような文章にゆきあたって、これで森茉莉を読むことになんの躊躇もなくなった。
     

    或時は私達は植物園にゐた。父は東屋のべンチに膝を曲げて横になり、麦藁帽子の下に半ば顔を見せて、本を読んでゐた。私達は芝生の中の小さな花を摘んだり馳け廻つたりするのに厭きると、黒い木立の底に光つてゐる池の方へ馳け下りたりしてゐた。或時は夏座敷の真中に父は肱を突いて低く坐り、本を読んでゐた。傍に白い大きな茶碗にチョコレエトが半分飲んで置いてあることもある。夜は明るい部屋と庭の闇との間に、淡赤い岐阜提灯が瞬いてゐた。そんな時の父の周囲にほ不思議な静かさがあるのを、私は感じてゐた。私にはどうして父がそんなに静かなのか、解らなかつた。父は広い世界の中で、静かで安楽な場所を見つけ、さうして其処に坐つてゐるやうに、見えた。私は生れつき落ついた質ではないけれども、さういふ父のそばにゐると自分の心が、まるでゴム風船のやうにフワフワとしてゐるやうな気がした。小さな私にはさういふ父の静かさがひどくつまらなくて、厭な時が、あつた。そんな時私はよく父の背中に飛びついた。私が父に飛びついたのは父が好きだからだつたけれども、ただそれだけではなかつたやうだつた。読んでゐる本から来るのか。何処から来るのか知れないその静寂に、軽い反抗を感じて、その静かさを動かし、父の注意を自分に向けさせようと言ふやうな心持が、その中にはあつたやうな気がしてゐる。  (森茉莉 『父と私』 昭和32年)

    これほどこころに降りてくる文章はそうはない。だが研究者というのは、こういう「文学」を信用しないのだろう。溺愛された娘の、そして父を崇拝する娘の、どこからがただの思い入れかわからないような言葉は、話半分に聞いておく方がよい。そういうスタンスなんだろう。けれども、いっしょう手放さなかった空想が、実証研究なんかに負けるはずがない。「きれいな熱情」を目にすることが出来たのは、彼女の空想がきれいだったからである。『父の帽子』にはこうある。

    「私は幼い時からそばにいて父を見ていて、私には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えた。」

    だがきれいな熱情を持っていたのは彼女じしんでもある。でなければこういうまじりけのない文章は書かれない。人を語ることがみずからを語ることになるということ。これがいちばん難しいことだ。だれもがそういう文章をめざして、でもかなわない。森茉莉にそれができるのは、自分の文章が自分を語っているなんて思いもよらないからだろう。彼女にはただ、「まるでゴム風船のやうにフワフワとしてゐるやう」なこころもちがあるだけなのである。

    July 19

    業務連絡w ニコ動にドイツ語機能

    ニコ動にドイツ語機能が追加されました!(スペイン語も) しかもなんと英語とかフランス語をおさえてだぉ。2ちゃんによるとその理由は:
     
    >――台湾版に続く海外版はドイツ語とスペイン語版だそうですね。表向きには、ドイツ語圏のオーストリアで開かれているメディアアートの国際的な賞を受賞したから、スペイン語は話す人の数が多いからと説明されていましたが

    >ひろゆき 海外版は、フランス語と英語を避けたんです。フランス語と英語は大手の動画配信会社があるから真っ向勝負ととらえられると微妙なので、ほかの国でうまくいくかどうかのテストをまずドイツ語やスペイン語でやろうという。
     
    まあそんなことはわりとどうでもよくて、とにかくひろゆき乙。ドイツ人の友達がいる人はおしえてあげようー。ニコ厨とドイツのシンクロ率がたかいことはみなさんなんとなくご存じのとおり。2ちゃんの反応がひたすらオモロイwww
    July 18

    動画 (ドイツ ドイツ語 文学 思想 哲学)

     
    ・木田元さんがハイデガーについて語っています。その1 その2 その3
    ・エルンスト・ユンガーの映像です。その1 その2
    ・トーマス・マンのドキュメントです。その1 その2 その3 その4 その5
    ・トーマス・ベルンハルトの映像です。コチラ (ほかにもたくさんアリ。それにしてもすごい訛りだ・・・)
    ・ハイナー・ミュラーがブレヒトを朗読。コチラ (ってかつねに葉巻かよっwww)
    ・「ヘルダーリンの詩は、我々にとってひとつの運命である」・・・ヘルダーリンを読むハイデガー。コチラ (全12本)
    ・「真実と政治」・・・ハンナ・アレントへのインタヴューです。その1 その2 その3 その4 その5 その6
    ・ホルクハイマーが哲学と宗教について話しています。その1 その2 その3 その4 その5
    ・マルティン・ヴァルザーが新刊『Ein liebender Mann』についてインタヴューを受けています。コチラ
    July 17

    ドイツ詩を網羅する! ルッツ・ゲルナーのシリーズ

     
    全200回のシリーズで、180の詩人、1500の詩を紹介―――そんな人気番組(?)<Lyrik für Alle>(みんなの抒情詩)がYouTubeでも楽しめるようになりました(公式)。朗読家ルッツ・ゲルナーの仕事です。
     
    げんざい129回分までアップされています。たとえば第106回の<リルケその1>は・・・こんな感じ。ドイツの詩人が中心ですが、ヨーロッパ・北米の詩も扱われます。週末をのぞいて毎日一回ずつみていけば、一年以内に全200回見終わることができるぉ。ドイツ詩を網羅、ドイツ語力UPもまちがいなし!
    July 16

    多和田葉子 ベルリン (動画)

     
    多和田葉子の動画がアップされているのをみつけました。彼女の動画がアップされた
    のはこれが初めてのはず。
    July 15

    ペルガモン博物館、あるいはロラン・バルトのかっこよさについて

    IMG_0226
    ベルリンのペルガモン博物館で、特別展<バビロン 神話と真実>をみてきました。会場には、こんな感じでいろんな思想家のことば(神話について)が掲げられていました。せっかくなのでぜんぶ訳出してみましょう。

    「神話はつねに、無意識のいとなみの結果、そして想像力の自由なる産物と名指されてきた。」(カッシーラー)

    「みずからに暴力を加えるような思考だけが、神話を破壊するのに十分な強力さを備えているのである。」(ホルクハイマー/アドルノ)

    「神話はなにも隠さないし、見せびらかしもしない。それは変形する。神話は嘘でもなければ告白でもない。それは変容なのである。」(ロラン・バルト)

    「神話がそれとして見られようとするかぎり、神話は神話でありつづける。」(レヴィ=ストロース)

    「どの神話も、現実がどう成立したかを物語るのである、それが全体的な現実であれ、コスモスあるいはその一部分であれ。つまりひとつの島や、ある植物とか人為的なものがどう成立したかを。」(エリアーデ)

    「神話とはその語りの核がもつ高度の不変性の物語である、そして周辺部における、同様にきわだった変形能力の物語である。」(ハンス・ブルーメンベルク)

    「私たちにとって新聞は、もろもろの神話あるいはもろもろの言語のバベルの見本だといえよう。」(マクルーハン)

    僕はロラン・バルトのがいちばん好きです。

    新海誠 宮澤賢治

     
    ぜんぜん関係ないんですけど、新海誠『雲のむこう、約束の場所』で、沢渡さんが教室で詩を朗読するシーンがとても好きなんです。夏に一時帰国したらひとりでねぷた祭りにでも行きたいなと考えていて、ふと思い出しました。PVはコチラ→ http://jp.youtube.com/watch?v=qYEtnF_AAQ0 詩は、『永訣の朝』です。

    はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
    おまへは わたくしに たのんだのだ

    銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
    そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……

    …ふたきれの みかげせきざいに
    みぞれは さびしく たまってゐる

    わたくしは そのうへに あぶなくたち
    雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
    すきとほる つめたい雫に みちた
    このつややかな 松のえだから
    わたくしの やさしい いもうとの
    さいごの たべものを もらっていかう

    わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
    みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
    もう けふ おまへは わかれてしまふ
    (Ora Orade Shitori egumo)        →註1

    ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ

    ああ あの とざされた 病室の
    くらい びゃうぶや かやの なかに
    やさしく あをじろく 燃えてゐる
    わたくしの けなげな いもうとよ

    この雪は どこを えらばうにも
    あんまり どこも まっしろなのだ
    あんな おそろしい みだれた そらから
    この うつくしい 雪が きたのだ

    (うまれで くるたて
      こんどは こたに わりやの ごとばかりで
       くるしまなあよに うまれてくる)     →註2

    おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
    わたくしは いま こころから いのる
    どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
    やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
    わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ

    註1・・・わたしは わたしで ひとりで 逝くから
    註2・・・生まれてくるとしても 今度はこんなふうにじぶんのことばかりで 苦しまないように生まれてくる
    July 14

    カフカとハイデガー (新訳と文庫化)

     
    ・ハイデガー『芸術作品の根源』が文庫化されます(平凡社ライブラリー)。ハイデガー入門!? (ボン大学で『芸術作品の根源』を読むVorlesungに半年出ていたことがあるのですが、つまりはドイツでもハイデガー入門として読まれているということです)。
     
    ・筑摩書房からは平野嘉彦編『カフカ・セレクション』全三巻が刊行を開始。第一巻「時空/認知』平野嘉彦訳。続刊→9月刊の第二巻「運動/拘束」柴田翔訳、11月刊の第三巻「異形/寓意」浅井健二郎訳。それにしても訳者の布陣が凄い・・・。最高のカフカ邦訳になることはうたがいがないでしょう。たしか平野先生の話だと、今回のセレクションでは成立年代順とかではなく、カフカの作品をみじかい順に並べてみるという、おもしろい構成になるのでしたよね。
    July 13

    虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑

     
    2005年に完成・公開の<虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑>へ行ってみた。ブランデンブルク門をはさんで連邦議会のすぐ近くにある。入場は無料。ただ、セキュリティ・チェックを受けた。
    IMG_0242
    前から報道で問題にされていたが、記念碑は休憩のためのベンチになっている。女子高生みたいなのがひとり、元気よく石の上を飛び跳ねていて、警備員に注意を受けていた。その娘、ムッとしていわく「はーい・・・でもそこで座ってご飯食べてる人たちと、何がちがうの?」
     
    でも実は写真に撮りたかったのは、休憩所としての記念碑ではなくて、この石たちの地下にある記念館の入口だった。そこでセキュリティ・チェックをうけたのだから。訊けば館内のフラッシュなしの撮影はOKとのこと。それで僕がセキュリティ・チェックの様子を撮ろうとカメラを構えたとたん、人が飛んできて、注意を受けた。相手はけっこう真顔で怖かった。「ここだけは撮らないでください。ここだけはだめです」。
     
    記念碑の歴史について、パンフレットの一番はじめにはこう書かれている。<1988/89年 ジャーナリスト、レア・ロースによる「果てしのない記念碑」への呼びかけは、とりわけヴィリー・ブラント、ギュンター・グラス、クリスタ・ヴォルフの支持を獲得した。>