Wuppertal's profile エルバーフェルト日記PhotosBlogLists Tools Help

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    June 30

    序、破、

     
     
    エヴァを見に日本に帰りたいです。あと、なぜかさいきん無性にココイチのカレーが食べたい。なんなんでしょうか。同じ研究室のルーマニア出身の女の子が、日本の夏はどうかというので、湿度がすごく高いのでけっこう苦しい、ドイツの方が暮らしやすいと言ったら、ブカレストにくらべたらドイツなんて湿気が多すぎて苦しいよ、とのことでした。世界はひろいなあ。ちなみにブカレストでも夏は35度平気でいくそうです。
     
    動画は 『序』、Evangelion 1.01 - You are (not) alone のドイツ語版DVDのトレーラーです。去年の秋くらいだったと思います発売は。いまアマゾンでみたら、19ユーロ95でした。『破』 のDVDが出るのも前回とおなじくおそらく一年後ということになりそうです。ドイツの映画館で公開されるかどうかはまだちょっと確認できていません。
    June 29

    「セキュリティ文化」

     
    フレデリック・ミッテランの文化相就任がきまって、話題になっています。僕はその作品を読んだことも映画をみたこともないので何ともいえないのですが、ドイツの残念な文化相、ベルントとはちがうことだけは確かなようです。フランスではまだまだリベラル知識人が一定の役割を担いうるのだな、と思いました。
     
    かたやドイツの文化政策というのはほんとうに官僚的で、戦後ドイツの後遺症はもう消えないのかな、と暗澹たる気持ちになってきます。なんというか、ドイツの文化って僕は「セキュリティ文化」と呼びたい。文化を窒息させることが文化みたいにみられている。神経症的です。そしてそれに自覚症状がない。ふつうはセキュリティと文化って、対立するはずのものなのですが・・・。たとえば、最近の記事。
     
      似たような動きはドイツでも起きている。ドイツでは、国内で販売禁止になっているゲームがいくつか
      存在するが、それらを隣国オーストリアのショップサイトから入手することは可能。そのため、オース
      トリアのサイトのゲーム販売を停止させろとの声がドイツ政府内で高まっているという [中略] 情報
      をシャットアウトする政府の動きは、歯止めがきかなくなる恐れもある。そのため、欧米のゲーマー
      たちは「中国やイランで起きているような言論統制につながりかねない」と危機感を募らせているとこ
      ろだ。 (引用元
     
    これでEUということでフランスまでこの領域で足並みをそろえてきたらどうなるのでしょうか? 話はちょっとずれてしまうかもしれませんが、僕はそもそもセキュリティということ自体にすごく疑問を感じる。いつも思うのですが、例えばあるゲームがあって、
     
      1、そのゲームが実際に犯罪につながったばあいのその件数
      2、そのゲームによって、犯罪が未然に防がれた場合の件数
     
    を両方ちゃんとリサーチした上で、それで2よりも1の方が統計的に多いと判明してはじめて、そのゲームは「有害」といえるわけです。それが「科学的」ということです。にも係わらず、なんにせよ規制の声が高まるときって、「これはあきらかに有害っぽい」という雰囲気ですべてが決まってしまう。世の中のひとって、まあなんて「文学的」なんでしょうか。
     
    アキハバラのときもそうだったし、数か月前のドイツでの銃乱射事件のときもそうだったけど、ああいうショッキングな事件がおきると、もうそれだけでゲーム脳とかいう話になって、神経症的に「有害なもの探し」がはじまる。百歩ゆずって、あるゲームが事件を助長したとしましょう。しかしそのゲームのおかげで起きなかった別の(数々の)事件についても考えてはじめて、フェアは保たれるはずです。左翼のひとってフェアを重んじるのではないのですか? 有害なものさがし、犯人さがしをして安心したいという心理なのでしょうが、しかしゲームを規制してセキュリティが向上するという科学的根拠なんて、どこにもありません。ないにも係わらずあると思いこむ、そのほうがよほど危険なのです。
    June 28

    飲みすぎた

    町がお祭りさわぎだったので、ふらふらバルメンにあるビアホールに出かけた。ここはもとは市民プールかなにかだった
    ところで、それを改造して地ビールを飲めるロカールにしてある。いまでもタイルが残っていて、プールの痕跡である。
     
    ちょっと写りがあまりよくないけど・・・ここの料理はわりとおいしい。いろいろガッツリ注文した。そして見事、平らげた。
     
    でも主役はやっぱりここで作っているビール。コクがあっておいしい。黒いのをはじめ飲んでいたら店の人がここのスペ
    シャルがいいよというので注文したらこれがヒット。アルコール高めでしっかりおいしい。えんえんとおかわりする。店の
    おばちゃんが「ね、おいしいでしょ!」というので「うまいっす」とへべれけに答えてそれからまだだいぶ飲んだ気がする。
    どうやって勘定したか、どうやって電車にのったかほとんど覚えてない。また飲みすぎてしまった廃人生活、600日。
     
    June 27

    筒井康隆が

     
    『けいおん!』 が終わってしまいました。憂鬱です。のみならず、僕がいつも楽しみにしていたドイツ人オタクのサイトmeidocafeが閉鎖されてしまいました。もちろん検閲というか、当局の手が入ったのです。ドイツだけではありません。日本でもいまエロゲーの危機です。また自殺者が増えるでしょう。
     
    ところで、筒井康隆がさいきんトーマス・マン 『ブッデンブローク家の人々』 について書いています。そうだったのかと面白いです。あとあまり知られていませんが、筒井康隆は 「モダン・シュニッツラー」 という抱腹絶倒ものの作品を書いています。シュニッツラー 『輪舞』 のパロディです。鷗外もシュニッツラーも検閲をうけたのであって、のちのち恥をかくのは規制する側なんですよね。学習能力というものがないのです。
    June 26

    フォンターネ『リベックじいさん』

     
    きょうは町の教会でシェッフェルさんの文学講演があるというので、同じ研究室の仲間と聴きにいった。とても感動的な講演で、思い出すだけでも涙が出そうになってくる。どうして僕はこんなにドイツが、ドイツ人が好きなんだろうなあ・・・。なんとかしてくれ。
     
    講演のテーマはフォンターネだった。まずさいしょに、『リベックじいさんのなしの木』 (1889)というフォンターネの物語詩が朗読される。僕は不勉強で(日本語訳があることも)知らなかったが、ドイツ人ならだれもが聴き知っている物語詩なのだそうだ。内容はごくごく素朴なもので、庭に素敵な梨の木をもつリベックじいさんは、子供がそばを通るたびに楽しく声をかけては梨の実をわけあたえていた。時はすぎ、じいさんは梨の実を自分の墓にいっしょに入れてくれるように言い遺して死ぬ。さてその息子というのがじいさんとは対照的にひどいケチで、分け与えるなんてことはしない。ところがやがてじいさんのお墓から新しい木が育って、豊かな実をつける。子供たちはそれを自由にとって食べることができるのだった。
     
    そこで話はかわって、フォンターネが死後、現在にいたるまでの100年間に、どのように受容されてきたかがドイツの歴史とともに紹介されてゆく。第二帝政においては郷土作家から国民作家へとのしあげられる。マン兄弟からは絶賛される一方で、ブロッホやデーブリンからははっきりと斥けられたのがワイマール時代。ナチ時代には民族を代表する詩人に数え上げられ、ドイツが東西に分かたれてからは西ではリベラルを代表する民主主義の作家として、東では社会主義を体現する作家として読まれた。現在では研究も多面的にすすんで、エコロジーやら精神分析から読まれてもいる。このいわば受容史はかなり時間をかけて、ていねいに説明された。聴衆の記憶をも呼び起こしながら、である。
     
    さて、それでいったいどのフォンターネが「ほんとうの」フォンターネなのでしょうか、とシェッフェルさんは問いかける。会場にいるのは9割が60歳以上の方々で、専門家ではないいわゆる一般聴衆なのである。
     
    それで話ははじめの物語詩にもどってくる。講演の組み立ての妙というべきだろう。じつは物語には、フォンターネの死後におきたことが凝縮されているのである。梨の木とは何だろうか。子供たちとはなにを表しているだろうか。なぜ息子はリベックじいさんとはうってかわってケチなのか。そして、物語に流れているながいながい時間は、なぜなのか。それらが私たちの記憶のなかにあるなにかと、重なってくる。
     
    いや、フォンターネが歴史を予言したというのではない。リベックじいさんがフォンターネであるわけでももちろんない。シェッフェルさんはただ、そういう偶然が起きてしまうということの、物語的想像力の不思議さ、それをいいたいだけなのである。私たちがすべきなのは、「ほんとうの」フォンターネさがしを急ぐことではない。時代がかわれば一人の作家もいろんな風に読めるんですよという相対主義がいわれているのでもない。どんなに統一なくいろいろに読まれてきたのがフォンターネだとしても、私たちにまでそれがのびてきているということだけは動かない、確かなことだ。それが伝承ということである。そしてその伝承はそのまま、物語の伝承の素朴さである。確かなものはつねに、素朴な相貌をしている。意匠はさまざまであってもかまわない。だが決して変わらないものがある。そしてそれが子供たちを喜ばせるのである。
     
    決して変わらないものがあると教えてくれるのは「誰」だろうか? リベックじいさんだろうか? そうだ。でもそれだけじゃない。フォンターネだろうか? そうだ。でもそれだけじゃない。解釈にいそがしい文学研究者だろうか? そうかもしれないがそれだけじゃない。たぶんそれは、「誰」ということでは応えられない。なぜならそれは非人称の、物語、Es war einmal... だから。シェッフェルさんありがとう。恥ずかしいから面とむかってはいえないけれど、あなたの詩心、ものがたりのこころは美しい。もしも自分に子どもができたらそのときは、このお話を読み聴かせたい。そう思わせてくれた今日の講演を死ぬまできっと忘れないだろう。
    June 25

    書評ということ

     
    紀伊国屋のサイトに、『ベンヤミン ― ショーレム往復書簡』 (山本尤訳、法政大学出版局) への書評が出ている。とてもいい書評です。読みきったあとたいへん気持ちがよかった。お金を払ってもいいくらい。→ktkr
     
    書評といえば、大学のオーバーゼミで<書評を書くゼミ>というのに出ている。もちろん、どうすればよい書評が書けるか、決められた答えなんかない。答えは、あるとすればたったひとつ、宇比山踏だけである。だから文章修業のために、ゼミには出ている。
     
    よく、文章修業のためにブログやってますとかいう人がいる。こういう人は頭のなかがお花畑でうらやましい。たぶん、蝶かなにかをアハハと追いかけているのだろう。ブログなんかで文章がうまくなるはずがない。世の中そんなに甘くない。芥川賞受賞作を読んで「これなら自分にも書けるかも」と思いこんで小説家になりたがるのはただの幼児的万能感だが、ちょうどこれに似ている。
     
    じっさい巡回していても単調な惰性のたれながしブログばっかりである。たくさん本を読んで感想を書いている人がいる。「何年ぶりに再読してみて」とか背伸びして、どうして素直に初めて読んだと書けないのかふしぎだが、それはいいとして(よくないけど)、本をたくさん読んでいっぱい知識はあるのだろう。だがその書かれてある感想はといえばいつも同じトーン。本人は気づいてないパターンで毎日かならず同じフレーズを使ってしまっている人もいる。まったく同じ味である。というか臭う。3か月連続毎日ギョーザ、みたいな。本人は飽きないのか? 飽きないのだ。いいと思っているのか? それでいいと思っているのだ。それでいいのだパパなのだ。だからどれだけ多く本を読んではいても書いてあることは全部おなじである。そこからは何も学べない。そして、これは真理だが、書く力が読む力である。そしてけっきょくのところ、書く力は本を一冊書くことでしか身につかないのである。
    June 24

    偽リヒター再び

    ゼミが終わって図書館でデューラーやヴォルフガング・ティルマンスの作品集をめくったあと空を見上げたらきょうも ―
     
    ― 空がきれいだった。ヒコーキ雲がクロスしていている。空は高いほうがいい。そして、地平線は見えたほうがいい。
     
          
    それで新海誠をおもいだした。これもクロスしているふうにみえる。新海誠の作品は、よく地平線を見せてくれる。これは感動的なメッセージだとおもう。蓮田善明の「雲の意匠」を読み返そう。
    June 23

    偽リヒター

     
    空が雲がきれいだったので、一枚。病んでるな、オレ。でもなんかゲルハルト・リヒターっぽくないですか? 偽リヒター。
    June 22

    パスカル・ロジェ

     
    本日、22日の演奏会。2008/2009シーズン最後の定期演奏会となります。プログラムはフランス音楽。
     
     <French Connections>               <フレンチ・コネクション>
        
      Pascal Rogé, Klavier                パスカル・ロジェ、ピアノ
      Sinfonieorchester Wuppertal            ヴッパータール交響楽団
      Toshiyuki Kamioka, Leitung            上岡敏之、指揮

      OLIVIER MESSIAEN                   メシアン
      Les offrandes oubliées                  忘れられた捧げもの
      Sinfonische Meditationen für Orchester   管弦楽のための交響的瞑想

      CAMILLE SAINT-SAËNS              サン=サーンス
      Klavierkonzert Nr. 5 F-Dur op. 103       ピアノ協奏曲第5番

      CLAUDE DEBUSSY                 ドビュッシー
      Petite Suite                      小組曲

      MAURICE RAVEL                  ラヴェル
      Daphnis et Chloé                   ダフニスとクロエ
      2. Suite                          第2組曲
     
    ・・・帰ってきてから追記します・・・  帰ってきました。ゼクトがおいしかったです。あ、音楽もよかったです。
     
    ↑ 会場のシュタットハレ。コンサート開始は20時。20時でもこの明るさです。僕も性格をもっと明るくしたいところです。
     
    ↑ ラヴェルが終わるとみんな立ち上がっての拍手(いつもそう)。なかなか前の方がうまくカメラに映りませんでした。
     
    ↑ 演奏会終了後。今シーズンで、つまり今日をもってオーケストラを去る団員がいて花束が贈られたりしていました。
     
    ↑ シュタットハレは本当によいホールです。響きもすばらしいし、内装にも品があります。結婚式はここでやろうかなあ。
     
    開演をまっているとジャンパーを着た国籍不明の小男が近づいてきて、日本語で「日本の方ですか?」ときかれる。そうですと答えると饒舌に語りだしてなかなかおもしろかったです。さっきトルコ人に間違われちゃってさハハハというのもうなずける風貌で、なんでもドイツを旅行中とのこと。御年74歳とのことで、こちらとしてはかしこまってしまいそうだが相手はやはりジャンパーである(アウターではなく「ジャンパー」なのである)。
     
    音楽がたいへんお好きなようで、町を移動しては演奏会を訪れているのだそうです。ヴッパータールの次はリューネブルクで『コシ・ファン・トゥッテ』だとのこと。もうすでにドイツ70ヵ所で音楽を楽しまれてきたそうです。リタイア後の悠々自適ですね。上岡さんがいたヴィースバーデンにも上岡さんがこれからいくザールブリュッケンにも行ってきたよ、このあいだはここで彼の『トリスタン』も聴いたよ、とマシンガントークの彼。僕は聴き役に徹します。そうですか。へえ、なるほど。ああそうですかぁ。
     
    しかしヴッパータールは二度目でもシュタットハレは初めてとのことで、こんなことをおっしゃっていました。「ザールはオペラは貧相ですよ、なんだって上岡はここにこんなにいいホールがあるのにザールなんかにいくのかな。でもヴッパータールはオペラ公演が少なすぎますからねそれがあるかもしれません、がだったらそもそもなんでヴィースバーデンを離れたんでしょうか、引きとめられたのに移っちゃったんでしょ、彼は。ヴィースバーデンはいいですよ、あそこはいいですよ、あそこは歌劇場専門ですからね、どうしてかなあ。」
     
    しらねーよ(笑) とか思いつつも「上岡」と呼び捨てにする偉い人かもしれないので、お話は漏らさずしっかり拝聴し、だからここにこうして書けるわけです。まさか恩師とかなにかかな? それで意を決して訊いてみたのでした。「失礼ですが、上岡さんをご存じでいらっしゃるんですか?」 すると。 「いいえ、知りません。」 えええええええええええええええっ!? フラグ無視かよwww
     
    そんな愉快なこともあったのですが、さてフランス音楽です。ドビュッシー、ラヴェルと進んでゆくとどうしてもサン=サーンスが野暮に聴こえてしまいます。これはパスカル・ロジェの所為ではなくて作風としてそうで、ドビュッシー、ラヴェルが天才すぎるんだからしょうがない。(今日ふと思ったんですがベルクソンの持続ってきっとラヴェルのことだ。)パスカル・ロジェはアンコールにサティを弾いてくれました。ジムノペディ、とてもよかったです。会場の空気の重さが変わるようなそれはフランスの純度でした。
     
    ダフニスとクロエは僕はデュトワ、モントリオールをライヴで聴いたことがあってそれと比べてしまうとこれはさすがに勝ち目はないでしょうか。正直に書くと、上岡さんはフランスよりきっとロシア、ドイツ音楽のほうをずっと得意にし、また相性もいいのではと思いました。これはでも上岡さんというよりオーケストラの問題かもしれませんが。ベルリン・フィルは例外としてドイツのオケでドビュッシーを無理なくやれるところはそうはない気もするからです。上岡さんは音を逃がすのがほんとうに他にいないほど上手な人だと僕は思っていてフォルテでもピアノでも、音がオーケストラのなかにこもるということがふだんないのです。それは風のように、聴く者のところまで心地よく逃げてくる。音にストレスがないのです。それが今日はちがって、逃げきらない音がこもっていたような気がします。だから結論はこうしておきたいのです: 本領発揮は来シーズン、第一回定期演奏会、のベートーヴェン・プログラムで!
    June 21

    ノブレスオブリージュ

     
      英国では経済学が発達した。そして英国の優れた経済学者に就て一様に言へるのはその
      何れもが名文家であるといふことで科学の反対にかういふ言葉に頼る部分が多い学問では
      これは当然のことと考へられるが殊にその人達が経済学を誰もの知識であるべきものと見
      てゐたことがこれは言葉の用ゐ方からその経済学そのものにも働いてその論理の展開を
      精緻にした。それが誰ものものといふ建前は経済学だけのものでない。一体に哲学の堕落
      はドイツ人がこれを特殊な人間にしか許されてゐない絶対の真理を求める仕事と考へたこと
      から始つてゐてそれを救つたのがフランスのベルグソンだつた。ヴァレリイの指摘を待たなく
      とも普遍的なものを求めるのが専門的な仕事である訳がないのである。又それ故に哲学上
      の特殊な用語を作つたのもドイツ人だつた。それを使つても煙草も買へないのであるからこ
      れは哲学の領分から人間の世界が外されたことになる。
     
                                              吉田健一 「言葉」 より
     
     
    吉田健一はドイツ嫌いである。ここにもそれがあらわれていることよ。ドイツ人には風流で粋なところなんてないから、これは仕方がない。タバコも買えない、とはお洒落な皮肉だが、僕的には「哲学を堕落」させたドイツ人は、やっぱり偉大である。ふりきれているからである。もっというと、哲学を「特殊な人間にしか許されてゐない絶対の真理を求める仕事」と考えたって、まったく問題ないとおもう。むしろ哲学をそう考えるべきなのだとおもう。だってそれだって、ノブレスオブリージュだから。哲学に民主主義などいらない。民主主義を超えないとそれは哲学の名に値しない。民主主義から外れる高貴さはしかし、究極には民衆にかえってくるためなのである。さいきん、少しづつ少しづつではあるけれど、ヘーゲルのおそろしさが感じられるようになってきた気がする。キーワードは「折り込み済み」。ヘーゲルをののしることで自分を高めたような気になっていたオレ。そんな自分が恥ずかしい。
    June 20

    アウグスト・マッケ

       
     

      今ここではまったく素晴らしいものを見ることができる。1914年に27歳で倒れた画家、

      アウグスト・マッケの絵の記念展覧会だ。もう以前から私は、知るにいたった彼の絵なんま

      いかに惹きつけられてきた。さて今回、展覧会は私にすばらしい印象をあたえてくれた。私

      はこれらの絵について小論を書いたよ。

     

     

             ヴァルター・ベンヤミン(1921年3月26日、ショーレム宛の手紙より)

     

     

    アウグスト・マッケは、ドイツ表現主義の画家。第一次大戦に召集され、シャンパーニュにて戦死。ヘリングラートよりひとつだけ年上であった。マッケの絵は僕はミュンヘンのレーンバッハ、それからノイエ・ピナコテークで観た。記憶ちがいでなければベルリンのブリュッケ美術館でも観たとおもう。ここヴッパータールのフォン・デア・ハイト美術館も所蔵している。はじめてマッケを知ったのはボン留学のときで、町にはアウグスト・マッケ記念館がある。この画家について何も知らないままそこを訪れて、すぐに好きになった。当時は表現主義に強くひかれていて(今もだけど)、読むものもゲオルク・ハイムとかだったのだ。

    June 19

    神動画

       
     
    『けいおん!』 も最終回に近づいてきたわけですが・・・神だ・・・神動画すぎる・・・これはもう、ある意味で、オリジナルを超えているのではないでしょうか。ありえない。ありえないよ。だめだ・・・感きわまって、涙から目が・・・
     
    とか書いている場合でもなくて、さいきんはそういう自分自身に憮然としてため息をつくことが多いです。小林秀雄が、人間の基本的な考えというか態度というのは20代に決まる、と語っていて、これは逆にいうと、20代をすぎればもう人間は根本的には変われないものだ、ということです。
     
    それで、はたしていま自分はそういうベースを築けているのだろうか、のちのち振り返ってみたときに、あれが自分の根っ子になったんだと後悔なく思えるような時間をいま過ごせているのかどうか、あやしく思うことがけっこうあります。あやしい。
     
    そういうときにこういう動画をみてしまうと、ますます分からなくなってくる。方向感覚がうしなわれるというんでしょうか。こんな(編集)動画が、リアルタイムで、こともなげに生産されてしまうような時代に、自分のやっていることは果たしてどこへ向かえばいいのか? 
     
    とにかくすごい時代に生まれてしまったものだと思います、べつに時代のせいにしているわけではなくて。この動画の衝撃で、頭のなかの積み木がガシャッと崩されて、自分がバラけてしまいそうだ。ありえん。つうかまじかよ。
     
    あ。この悩みには、野球でバッティングの調子が上がらないのもぜったい関係してるな。からだと脳はひとつだ。
    June 18

    伯林音楽事情

     
    ベルリン・フィルのあたらしいコンサートマスターが、樫本大進さんに決まったようです。スタイルがぴったりですよね! 世界最強のベルリン・フィルを清水直子さんとひっぱってゆくのだから、すごいなあ・・・。
     
    June 17

    教育ストライキ2009(ドイツ)

         
     
     大学を主体としたデモ行進やバリケードで、60以上の都市の高校生や大学生が5日
     間の教育ストライキを開始した。抗議運動は、とくに大学の授業料や学士・修士課程
     の入れ替え、8年間のギムナジウムにおける上級学年の短縮に反対している。ピーク
     は水曜日に80都市で行われるデモ行進で、主催者は15万人の参加を見込んでいる。 
     
                                        今日のドイツ・ニュース より
     
     
    というわけで、ここヴッパータール大学もストライキに入りました。なかなか賑やかです。今週は授業はありません。というか、封鎖されて教室に入れてもらえません。なのでビールを飲むしかありません。じっさい飲んできました。飲みます。飲むでしょう。
     
    動画は、おとといの集会のようすで、きょうは町でデモが行われた模様。「学生諸君は14時に、市庁舎前に集合せよ!」との文字が、大学中にあふれていました。
     
    でも、動画を見てもらえればと思いますが、いちばん思ったというか、あらためて感じたのはあれだな。ドイツ語ってのはほんとに演説向き(プロパガンダ向き)の言語だってことだな。たとえ内容が空疎でもかっこいい。 "Wer seine Meinung kundtut, kann etwas gewinnen, nämlich die Freiheit bei der Bildung!!"
    June 16

    NZZの『1Q84』書評

     

    さすがはNZZ。

     

    NZZ(Neue Zürcher Zeitung/新ツューリヒ新聞)に村上春樹『1Q84』への書評が出ている。あくまで結果的にだが、きわめて辛辣な内容になっている。(つまり、評者に悪気がないだけにいっそうクリティカルなのである。) だがリアルタイムでこのクオリティの書評を出してこれるのはさすがという気がする。ヨーロッパの高級紙と、大衆新聞しか存在しない日本との格差、がただただ痛々しい。

     

    とまれ、この書評がおもしろかったのは、村上春樹を一貫して「救い主」とみている点である。90年代から経済的、精神的につづく日本の閉塞状況。そこから読者を「救助」するために書きつづけてきた作家像というのを、前面に出しているのである。もちろんこれは陳腐な見方だ。しかし『1Q84』に群がる人のほとんどが、意識的にせよ無意識的にせよ、じっさいそこに「救い・癒し」をもとめてはいないだろうか? つまり書評の書き手は、多くの日本人が期待し欲望するところの村上春樹像にすなおに従った上で、それをドイツ語圏の読者に紹介しているだけである。外国文学をその国の現状とともに紹介するこれはむしろ誠実な態度だといえるだろう。

     

    それにしても人が悪いのは、村上春樹と雨宮処凛を同列に論じている点だ。ほんとうは人が悪いというより、外国からすればふたりのやっていることが同じにみえるという点が重要であり、なるほどと思わせる、これはこれで新鮮な視点だとおもう。雨宮処凛はプレカリアートを実践面で救助しつつ、精神面では『蟹工船』という「文学」をはやらせて若者たちのこころのケアを試みた。そしてこの『蟹工船』とおなじ治癒力が『1Q84』には求められているのだというとき、書評の書き手に悪気はないが、悪気がないだけに事はいっそう辛辣なのである。『蟹工船』と『1Q84』が同じコインの裏表というのだから。(カニ缶とファーストフード!? カニバーガー??)

     

    もしも文学がこころのケアであり、読者を救うのが作家なのだとしたら、もはや終わっている気がする。そこにはリアル充実との区別も、スピリチュアルとの区別も、宗教との区別も存在しないからである。もちろん、このように言う人はいるだろう。「物語のどこがいけないのか。物語に癒しをもとめて何がわるいのか。物語に救いをもとめるのだって文学ではないか」、と。

     

    ほんとうにそのとおりで、物語に治癒をもとめていけないことは何もない。人間は歴史的にも、ずっとそうして生きてきたのだ。物語はケアとしてあって「も」、なんら問題はない。ただ、どうしても気になるのは、村上春樹の物語には<美の戦慄>がまったくない、ということである。遠野物語はうつくしい。舞城王太郎はうつくしい。だが村上春樹はうつくしいだろうか? 今回も僕は、人間を戦慄でもって黙らせるような美を『1Q84』のなかに見つけることはできなかった。ひとつとしてである。
     
    June 15

    ベートーヴェンに綱ぐ

     
    おとといの中原中也の「生と歌」は音楽雑誌にのったもので、ベートーヴェンを論じた文章でもある。きのうのヘルダーリンはベートーヴェンとおなじ1770年生まれ。それで島田雅彦のブログを思い出すことになりました。「ベートーヴェンのSQ」ということでこう書かれてある。
     
      近頃の通勤の楽しみはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながら、スコアを追いかけること。
      車窓からの景色、車内に乗り込んでくる人々の挙動、これらすべてにリズムとメロディを与えら
      れ映画の1シーンのようになる。やめられない。
     
    おなじことをやりたくなって、スコアなんかもってないけどやってみた。作品132。たしかにたしかに、映画の1シーンのようになる。これはいい! やめられないかもしれない。いいことを教えてもらった。みなさんもぜひどうぞ。僕はハーゲンSQがすごく好きなんだ。
     
    ところで、ガダマーは、ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの時代の楽器やら解釈やらで演奏するいわゆる古楽器演奏に対して、きわめて批判的だったらしい。なんかさいきんになってようやくそのことが、実感としてわかるようになってきた気がする。カラヤンがベルリン・フィルで分厚いバッハを聴かせるとき、それはやはり「正しい」ことなのである。そう考えると、グールドもじつはきわめて「正統的」なことをやってのけたので、ガダマーはきっとグールドを評価したはずなのである。「僕はエキセントリックではない」とは、ほんとうのことだったのだ。
    June 14

    ヘルダーリンの母への

     
     僕は、自分の生きがいであるものが、高貴で、またそれが人間にとって救済的なものだと
     いうことを、深く自覚しています [...]
     
                             
                             1799年11月16日、ヘルダーリン、母宛ての手紙
     
     
    このようにうちあけられる母がいるということと、詩による救済への確信とは、おなじひとつのものではないだろうか?  ここでいう救済は erlösen ではなく heilen である。ベンヤミンは、詩にかえて物語で、おなじ問題を考えている。「物語と救済」 (1932)を参照。
    June 13

    無鉄砲少女

     
       批評が盛んになる時に、作品は衰へる、とは嘗つてゲエテの言つたことだつけ。げにほんと
    であることよ!――尤も、批評は盛んになるがよい、而して生活はなほ盛んになれば好いのだ
    が、とかく批評の盛んな時に、生活は衰へ勝ちなことではある。
       今や世は愛も誠実もあつたものでない。厚化粧の亡霊等は苟安の中に百鬼夜行する。ディ
    レッタント達が一番壮大とみえ、真面目に何かをやつてゐる者は驢馬なのである。おまけに熾ん
    な社交意識が伴つて、如何に虚栄を演ずるかといふことの中に人格の価値があるかの如く思
    ひ做される、さういつた風潮は日々に激しい。それは恰度芸術にあつて、表現方法をばかり問
    題にされることの生活的方面での現れである。[中略]
       総じて陰気くさくつて而もバラ/\だ。悪賢い小商人がいちばん活々して生きてゐるといふ
    有様だ。
       こんな中では私は、無鉄砲少女が好きなんです。
     
                                         中原中也 「生と歌」 (1928) より
     
     
    例によって、日独文学交叉シリーズである。 
     
    無鉄砲少女が好きなんですという照れ隠しが、なんともかわいい中原中也。当時、はたちかそこらである。(しかし、長谷川泰子をめぐる小林秀雄との三角関係はすでに始まっていた・・・) ニーチェを読んだ熱狂が、伝わってくる。タイトルの 「生と歌」 は、ゲーテの 『詩と真実』 を意識したかもしれない。散文を書いても詩になる。リズムがある。遊びがある。
     
    読んでいたら山口に帰りたくなってきた! 気の合う仲間と湯田温泉につかって一杯やりながら、詩の朗読を聴かせ合う。僕は「一夜分の歴史」を声にだして読もう。Yちゃん、いつもすまんけどお酌はよろしく!
    June 12

    ベルリンのスキゾキッズ時代

     
    せめてネット(世代)くらいはマスコミへの、団塊の世代への、そして偶像崇拝(一極集中)へのカウンターであろうよ・・・。世代でも組めないというのがネット時代ではあるものの。というわけで島田雅彦の対談本 『天使が通る』 をここでとりあげるのは、ニーチェとかヴェンダースとかベンヤミンが出てくるからである。
     
    目次
     ニューヨークへの手紙(浅田彰)
     ・ダンテ  愛の超新星(スーパーノヴァ)
     ・ニーチェ  超人のオペラ・ブッファ
     ・フーコー  悦ばしき回帰
     ・ミシマ  模造を模造する
     ・ヴェンダース  廃墟の光
     ニューヨークからの手紙(島田雅彦)
     
    すごくおもしろくていい本なのに、神保町とかにいくとワゴンに放り込まれて捨て値で売られていたりするので、逆にありがたい。僕は文庫版(新潮文庫)で読んだが、ハードカバーの初版はたしか1988年である。昭和のおわり、冷戦時代のおわりを間近にひかえた空気がどうだったかを対談のなかに読むのもひとつの読み方だろう。ニーチェにからめてニヒリズムを議論しているところがスリリングである。三島由紀夫をボロクソにいうのが浅田彰であってみれば、それに対して島田雅彦はどう応じるか? そこを追うのもまた一興。
     
    余談: 福田和也はベンヤミンもハイデガーも邦訳で読んでいるが、浅田彰はベンヤミンをあきらかに原書でも読んでいる。柄谷行人はどこかで、浅田彰より下の連中は外国語ができないから批評以前の論外だときりすてていた。
    June 11

    団塊より郊外、天吾よりテツヒト

     
    戦後民主主義の作家であり団塊世代のアイドル(笑)村上春樹の新刊1Q84がドイツでも記事になってたけど(ムラカミ・フィーバー・イン・ジャパン)そういうなかで島田雅彦の郊外をユーチューブにアップしたひとはえらい!
     
    <日本型寡占マスメディア = 東京一極集中 = 世論とは団塊の世代の意見のこと> ⇔ <「郊外」の思考>