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April 30 ハーバーマスと「思想地図」NZZに、ハーバーマス
Jürgen Habermas: Ach, Europa. Kleine politische Schriften XI., Frankfurt am Main 2008
への書評が出ています。やはりというべきか、ヨーロッパと公共性がテーマのようです。
こちらからどうぞ。
そういえば、東浩紀・北田暁大の「思想地図」(初版10000部)がさっそく増刷のようですね。次回の公開シンポジウムのテーマは「公共性とエリート主義」ということです。極東の島国の人間からすると、ヨーロッパの公共性はもう十分すぎるほど強固だとおもうのですが・・・(あくまで相対的に)。断言しますが、日本に公共性を輸入するのは(したがってハーバーマスを消化するのは)ムリです。なぜなら、日本にエリート主義など存在しないからです。 April 29 宮台真司とファウストⅣ本ブログでもすでに何度かとりあげたファウストのアルバム「ファウストⅣ」ですが、これを宮台真司が「人生の一枚」として絶賛してるので、紹介したいと思います。以下、MIYADAI.comからの引用です。
■中二のとき、NHKFM「渋谷陽一のサウンドストリート」を聴き、ピンクフロイド「ユージン斧に気をつけろ」からプログレに入門した。イエスやキングクリムゾンを経て、タンジェリンドリームなどドイツのロックを聴くようになる。
■山野浩一編集のSF雑誌『NW-SF』の音楽記事をみちしるべにしていた。大和市に住んでいたので、麻布中の行き帰りに町田のプログレ専門レコードショップに出入りした。そこで店長にファウストの1st『ファウスト』を勧められた。 ■衝撃だった。高周波成分が含まれたレコードを、10万ヘルツの高周波を出力できるスピーカーで聴いて、脳が破壊された。その頃の僕には体験をどう形容していいのか分からなかった。「同時代の匂い」を嗅いでいることだけは分かった。 ■店長に勧められるまま、ノイ、カン、グルグルなど非シンセ系ドイツ・プログレを聴き、やがて新譜『ファウストIV』を買った。結論から言おう。これは高一(1974年)から現在まで三十年以上ずっと聴き続けてきた数少ないアルバムだ。 ■今でもiPodに入っていて、トランスミッターでFMラジオに飛ばし、オープンカーの幌を上げて大音響で聴く。都会であれ、田園であれ、全ての風景に溶け込む。車に取り付けた4つのディスプレイに映じる前衛的映像ともベストマッチだ。 ■実は最初に『lV』を聴いたとき、よく分からなかった。エッジが立っていないモコモコした音だと感じた。B面は『So Far』と似て、ユルイ曲ばかりじゃないか。ジャケットの五線譜デザインにしてからヤル気がない。こりゃダメだ──。 ■ところがどっこい。プログレや実験的ロックの大半は数年して聴けなくなった。疲れて耐えられないのだ。昔を思い出したいという特別の場合を除き、聴かなくなった。ファウストは違う。とりわけ『IV』だけは全く違う。全然疲れない。 ■音でなく音風景が描かれるからだろう。当初からA面が1stと同じく学校の音っぽいと感じた。廃校をスタジオにしていたと知る前だ。そう。ファウストは音でなく、音のある風景を描く。学校であり、街頭であり、田園であり、居間であり。 ■音を絵の具のように重ね塗りして風景画を描くのとは違う。それはピンクフロイドや前期タンジェリンドリームがやった。今聴くとつらい。そんな主観的な風景画はもう見たくないからだ。ファウストは違う。風景画でなく風景だけがある。 引用おわり。全文はこちらからどうぞ→http://www.miyadai.com/index.php?itemid=429 April 28 いちばん偉大なドイツ人は?2003年、ドイツの国営放送が、国民的規模のあるアンケートをおこないました。
もっとも偉大なドイツ人はだれだとおもいますか? というもの。
さてさて。 その結果やいかに!? ベスト10はつぎのようになっております。
1. コンラート・アデナウアー (政治家、首相)
2. マルティン・ルター (宗教改革者) 3. カール・マルクス (思想家) 4. ゾフィー/ハンス・ショル (抵抗運動家) 5. ヴィリー・ブラント (政治家、首相) 6. ヨハン・セバスティアン・バッハ (音楽家) 7. ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (作家) 8. ヨハネス・グーテンベルク (活版印刷術発明者) 9. オットー・フォン・ビスマルク (政治家、宰相) 10. アルベルト・アインシュタイン (物理学者) へぇー、というかんじでしょうか。個人的にはグリム兄弟を入れたいところです。 April 27 バウハウス展のおしらせApril 25 『カルテンブルク』についてバイアーの新作『カルテンブルク』を読み終わりました。えらく時間がかかりました…。ことばをすごく慎重にえらぶ作家なのでざっと読めるような本ではないのと、あとプルーストとか、それに関連してベンヤミンとか、さらにはヨーンゾンとかが小説のなかで引きあいにだされるので、そういったことを確認しながら読み進めると、どうしてもペースがあがらなかったということがあります。以下、ごくかんたんな「感想」を書いておきます(分析する余力はないですがあしからず)。
まずタイトルのカルテンブルクというのは、いっぽうの主人公である動物学者の名前です。小説は枠物語のようになっていて、ある日のこと、鳥類学者である「私」のもとを、ひとりの女性がおとずれます。女性はあるささいな理由から、ドレスデンに住む「私」にインタヴューを申しこむ。鳥類について専門家の助言をあおぐ、みたいな感じなのですが、このおもいがけない対話がきっかけとなって「私」は訊ねられるままに過去を断片的に思いだし、女性に語ってゆく。「私」がもういっぽうの主人公です。
この<現代・ドレスデン・「私」>を起点にして、過去がリニアにではなく、ランダムに想起されてゆく(あっちへ飛んだりこっちへ飛んだりするので、読む側としてはパズルを組み立てるのに骨がおれます)。で、どんな過去かというと、おおまかにいえば「私」とカルテンブルクの過去、時代背景としてはナチ期から旧東ドイツをへて東西ドイツ統一後の現在までをカヴァーしています。ですが、話の中心(そんなものがあるとして)になるのはやはり、東ドイツ時代であるといっていいとおもいます。なお、カルテンブルクは1903年生まれ、1989年死去。現在の「私」もけっこうな老齢ということになります。
およそこういう設定のなかで、「私」がかの有名なドレスデン空襲で両親を失くして孤児となったこと、その彼をカルテンブルクが事実上ほとんど父として導いたこと、東ドイツでの研究所生活、世界的に知られる動物学者となったカルテンブルクがじつはナチのシンパだったことなどが明らかにされてゆく。
小説全体が約400ページで、それが6つの章にわかれていますが、第1章だけは8ページと、極端にみじかい。
以上が小説のあらまし。ここから感想にはいります。結論からいうと、導入=第1章がよく出来ているので期待は俄然たかまったのですが、しかしすぐに失速し、けっきょく前作の『Spione』にひきつづいて残念な作品になっているといわざるをえません…。『オオコウモリ』(1995)が抜群の出来だったので―『夜に甦る声』というタイトルで日本語にも訳されました―バイアーにはどうしても期待してしまう、ハードルをあげてしまうというのもあるけど、それにしても今回の小説にはがっかりしたというのが正直な感想です。
まずなにより、東ドイツの歴史とからめて動物学者、鳥類学者をテーマにする必然性がまったくみえてこない。いや、必然性なんてなければないでいいのだけれども、じゃあかといってサスペンスがあるかというと、なにもない。サスペンス(=緊張=電圧)を大事にしたいといっていたのはバイアー自身だったはずなのですが。小説は歴史書ではないのだから、小説という装置でしかできないことをするのが作家としてのあたりまえの倫理だとおもうけど、この点でバイアーは『オオコウモリ』からあきらかに後退しているとおもいます。
今回の小説でバイアーは、すこし黙ってみないか、東ドイツという大文字の歴史についていま声高にあれこれと言い立てるのではなにも明らかにならないのだから、というスタンスをとっている。だからこそ、そういうある種の「饒舌さ」に対抗するためにプルーストをもってきます。静かな、ほんとうに意味なんてなにもないような一瞬・事物に身を浸して驚愕し、またいつくしむ精神を信頼している。語り手である「私」の妻は、「饒舌さ」を嫌い、ただただプルースト的であることに希望(ベンヤミン的な意味で?)を見出してきた女性なのですが、バイアーが彼女に最大の共感をよせていることはすぐにわかります。あるとき、昔はああだったこうだったと男たちが過去を思い出しながらしゃべっているのを聞いて、彼女は不快になる。そして、あとで「私」にこう漏らします。彼らはみなああやってさも深刻そうに、さも苦々しく語ることで、しかしほんとうは自分たちの罪のなさ、潔白さを確認しあっているだけだ、と。
でも、だったら僕たちはむしろプルーストを読みたいし、大文字の歴史について議論かまびすしく語ること、あるいは私的な過去を深刻ぶってはなすことで癒しや満足をえることが、じつはなんにも明らかにしないなんてことは、これはもう常識であって、文学というものはそこから出発するのだし、そこから出発しうるからこそ存在意義があるのではないでしょうか。その常識をいまさらのごとく小説のなかで語ってみせるバイアーにこそ、僕は「饒舌さ」をかんじてしまう。
これでは、東ドイツの歴史にぎりぎりのところで勝負した浦沢直樹の努力はどうなるのか。それをいうのは(ぜったい読んでないだろうから)すこし不当かもしれないけど、でもヴォネガットの『スローターハウス5』や(バイアーじしんがベンヤミンをもってくるのであれば)ハイナー・ミュラーの存在をすこしでも意識するなら、『カルテンブルク』のような小説は書かれうるはずがなかったとおもうのです。
僕がバイアーの『オオコウモリ』をこのうえなく高く評価し、感動したのは、ナチス・ドイツの12年間を「真空」としてみるという、ひじょうに危険なことを彼があえてしたからです。そして、ほんとうはあの12年間を「真空」としてなんてみれるはずがないということを誰よりもよく知っていたのがバイアー自身だったからです。彼はそこで小説でしかできないことを僕たちにみせてくれたし、それによっていわゆる実証的な歴史研究というものがいかに饒舌なおしゃべりであるか、またそれが客観性ということをナイーヴに信仰できるいかに幸福な人々によってなされているかをえぐっている。あのときのバイアーは静かで、厳しかった。『カルテンブルク』との落差はあまりにもおおきい。この落差にとまどっているというのがいまの僕の印象です。
追記: コンラート・ローレンツ『動物行動学』(ちくま学芸文庫)が本書の参考文献になるでしょう。 April 24 ゲルハルト・リヒター日本ではいまやゲルハルト・リヒターは、メルケル首相なんかよりも有名なのではないでしょうか。僕もいつだったか、千葉は佐倉の川村記念美術館までリヒター展をみにいったりもしましたが、こんなに集客力があるドイツ人というのはほかにはあまりいないのではないか。
リヒターの無機的でニュートラルなところがすき、というひとがおおいみたいだけど、僕はリヒターはとても伝統的というか、「ドイツ的」だとおもう。たしかに透明的ではあるのだけど、そこにはルターとかバッハとかカントとかに通じるような厳しさがある。僕はそこに惹かれます。単純にいえば、かっこいい。
リヒターのHP(英語版もあり)には、彼の作品がたくさんアップされていて、ひろって楽しめるようにもなっています。動画もありますのでぜひ。ながめるだけで、時間がゆたかになるようです。 April 23 ズーアカンプの新企画ブロックハウスがウェブに。ウィキペディアが本に。南ドイツ新聞によると、ドイツの代表的百科事典「ブロックハウス」がウェブ化され、逆にウィキペディアは書籍化がなされるようです。詳しくはこちら。
ただ、ほんらい今月15日に予定されていた「ブロックハウス」ウェブ版のスタートは、いろいろあって延期されたようす。あくまで延期であって、中止ではないとのこと。これは楽しみですね。いっぽうウィキペディアの書籍化は世界でも初のこころみということです。出版社はWissen Media Verlagで、お値段は19,95ユーロになるとのこと。
※追記・・・このニュース、日本語でも読めるようになりました。 technobahn からどうぞ。 April 22 MANGAによる世界侵略は着々と。べつに大型書店ではありません・・・これはエッセン中央駅の構内にある本屋の棚にすぎませんが、ぜんぶマンガです。じつは、写ってませんがこの背後の棚もマンガで埋めつくされていて、そちらは少女漫画でかためられていました。麻生太郎がみたら、きっとニンマリすることでしょう(いつもしてるけど)。
そんなことより、あろうことか、この本屋で「魁!クロマティ高校」をみつけてしまいました。まさかと思ってはらりはらりとめくってみると、けっこうこまかいところまでちゃんとツボをおさえてドイツ語訳されている・・・。この高レベルかつ「空気」を前提とする笑いがドイツ人にわかるなんて、なんだかムショーにくやしい。
いや、しかしである。我々には、「行け!稲中卓球部」 という最終兵器、リーサルウェポンが残っていますので、みなさん、心配は無用です。 April 21 ドイツにも春がドイツにも春が訪れようとしています。ゾーリンゲン郊外の自然のなかへ飛びこんでみました。このおおきな鉄橋の下をながれるのがヴッパー川で、ヴッパータールの地名の由来です。水質のよさは、ドイツでも有数だそうです。ヴッパータール/エルバーフェルト生まれの詩人→エルゼ・ラスカー=シューラー(ユダヤ人女性)には、まさに『ヴッパー川』という戯曲作品があります。昨年には慶應義塾大学出版会から、彼女の評伝も出ました。こちら。
ところでこの鉄橋。写真では伝わりづらいのが残念ですが、まさに壮観でした。上を電車がはしります! 完成はなんと1897年で、いまでもドイツ国内で最大の高度(107メートル)を有する鉄道橋なんだそうです。橋は、日本人にもおなじみのゾーリンゲンと、レムシャイト(これは前にも書きましたが、ドイツの現代アーティスト、W・ティルマンスの出身地ですね)というふたつの町を結んでいます。それにしてもこの国は、自然のなかに技術を溶けこませるのがいつもほんとうにうまいなあ。 April 19 カラヤン生誕100年カラヤン生誕100年ということで、レスピーギの交響詩「ローマの松」から、最終楽章を。
最晩年のカラヤン。静から動へ、ローマ軍のダイナミックな前進が目に見えるようです。
とくに2:30あたりから、世界最強のベルリン・フィル金管パート、まさに本領発揮です。
涙を流したいひと、必見。 Googleという「人間喜劇」最終回バルザック「ペール・ゴリオ」が書かれたのは、「ファウスト」第二部が世に出てからまもなくのことである。「ペール・ゴリオ」が重要なのは、それが「人間喜劇」=世界の測量(Vermessung)のプロジェクトに統合することをあらかじめ計算にいれて書かれた最初の小説だからである。周知のとおり、「人間喜劇」は未完ながら約90もの小説の結合、登場人物総数3000以上から成るロマーン・モービルであり、「幾多の世代をうちたてた者、幾多の運命を浪費した者」と、リルケはバルザックのことをそう呼んでいる。
ウェブ空間もやはり「村」と「都市」から成り立っていると以前書いたけれども、小説は、田舎出の青年ラスティニャック、このナポレオン的成り上がり者が大都市パリに宣戦布告するシーンで幕を閉じている。ゴリオ爺さんの埋葬を終えたあと、ラスティニャックは墓地の高台へとのぼってゆき、そこからパリの町を見渡す。エッフェル塔建設に先だつことおよそ60年、この鳥瞰の図は決定的に重要である。主人公の志向をこれほど印象深いやりかたでトポグラフィックに呈示した作品というのは、あまり例がない。
ラスティニャックにとってはもちろん、作者バルザックにとってもまた、パリこそは測量が最大のターゲットとすべきもの、情報の網目のいちばんの結び目、絶対的真理を宿すべき地点である。それは、バルザックがパリをつねに最上級で表現していることからもうかがえるだろう。たとえばバルザックはパリをこう呼んでいる。「地球の頭部」、「世界の首都」、「首都のなかの首都」、「諸思考の首都」、「センスの首都」、「諸理念の首都」、「虚栄心の首都」、「知的世界の首都」、そして「諸都市の女王」。
小説の末尾で――といってもそれは、人物再登場の手法によって多方向的にリンクされているため、バルザックのべつの小説たちへの入口でもあるわけだが――地方出のラスティニャックが攻略しようと考えるのはこのようなパリであり、つまりそのとき彼は「世界すべて」と対峙し、測量の対象にすえようとしているのだということができる。そしてこの手強いターゲットを「お前」と名指して、ラスティニャックは「壮大な」ことばを吐く。そのあまりにも有名な一文は「今度はオレとお前の勝負だ!」だが、ドイツ語ではこうだ。
<Jetzt wollen du und ich uns messen!>
さきに、クライストの後退は、跳躍のための無限の助走だとのべた。ミシェル・ビュトールは、バルザックを論じたエッセイ「バルザックとレアリテ」のなかで、ヌーヴォー・ロマーンにとって、そして小説という形式そのものの更新にとって、いかに「人間喜劇」が多くのことを教えてくれるかを強調している(猫も杓子もフローベールばかり讃えていた時期にである)。そしてじっさい、稼働しつづける「人間喜劇」というシステムに影響されない小説はなかったし、「今日なお我々はその航跡のうちにとどまっているのである」と述べている。そしてさらにこう続けている。バルザックの作品は、私たちにとって、跳躍のための「踏み切り台」なのだと。
だとすれば、僕たちの世代にできるのは、一部の大人たちが主張するように(もぎけんいちろー?)グーグル的な知のありかたに警戒心をつよめたり、あからさまな対抗姿勢をしめすことなどではなくて(そういうのが本当の現実逃避である)、グーグルに乗って、その乗り心地の悪さを記述しながらグーグルを「踏み切り台」として跳躍するような、そういうチャンスをうかがい続けることである。世界はグローバルとローカルだけでは足りないし、だいいち、それだけではつまらないのだから。 April 17 今月のDas Philosophische Quartett ――左派とはなにか?今月のZDF ― Das Philosophische Quartett (13.04.2008) のテーマは、「左派とはなにか?」です。動画はこちら。
ゲストは、歴史家 Paul Nolte とジャーナリスト Heribert Prantl。
こういうのをみて思うのは、エリートなんて望まない<同調圧力大国>日本で、左寄りの有能な政治家やしたたかな左翼知識人が育つはずないよな、ということ。 April 15 クラウス・ディンガー、逝くドイツのプログレ・バンドNEU!のクラウス・ディンガーが心不全で亡くなりました、享年61。
ファーストアルバム「NEU!」から、名高き「Hallogallo」に浸りつつ、冥福をお祈りします。 April 14 カール・シュミットは私信でもあくまで決断主義者NZZに、去年まとめて出版されたカール・シュミットの往復書簡への書評がでています。
カール・シュミットはプライヴェートでもあくまで決断主義者だったようです。
しかしDeath Noteのあの終わり方では、夜神月は決断主義者になりそこねているのでは? April 13 ドイツ小説 べすとふぁいぶとつぜんですが<ドイツ小説ベスト5>を選んでみました。よかったらぜひ読んでみてください。すべて読破されたかたのうち、抽選で50名の方にはなんと、六位か(以下略)
1 ゲーテ『親和力』(講談社文芸文庫)→アンビリバボー。
2 シラー『招霊妖術師』(国書刊行会)→サスペンス!
3 ホフマン『ブランビラ王女』(ちくま文庫)→脳みそ溶けます。
4 クライスト『ミヒャエル・コールハース』(沖積舎)→なんつうか時限爆弾。
5 シュトルム『白馬の騎手』(岩波文庫)→「文学って、生き方だろ!?」
ゲーテとシラーでワンツー・フィニッシュというのはあまりにも便覧的というか、芸がありませんが、だってそうなんだからしかたがない! それにしてもふと気づけば、十九世紀の作家ばかりで固めてしまった・・・そんなつもりはなかったのに・・・。 April 12 コロキウムきょうは、研究室のコロキウムでした。発表者はふたり。毎回たっぷりの資料が発表者から事前にくばられるので、当日の原稿の読み上げなどはいっさいナシ。効率的。したがって三時間、ぶっつづけの議論。
だいたいいつも議論の90%は論文の構成・コンセプトに、のこり10%が論文の内容にあてられる。さっさと(←いい意味でつかってます)博士論文を書かせて、さっさと教授資格論文を提出させ、就職してもらう。そういうスピーディさを実際に可能にしているのが、このやりかた、つまり、議論の九割を「論文作法」に割くやりかたです。
外の研究室や大学がどういうやりかたをしているかはしらないけど、少なくともここの研究者は、博論・教授資格論文を書き終えるまでがあきらかに一般よりはやい。まさにレトリック養成の効用。
ともあれ、きょうの発表は:
・1880-1939年の英米・ドイツ語文学における、「技術革命」への応答
・映画と、文学における映画的な語り――ナラトロジー的研究
いやー、あいかわらずコアだなー。ここの研究室はそもそも物語研究センターなのでとうぜんといえば当然ですが、多くの研究者がナラトロジー的アプローチをとります。今回も、バフチンとロトマン(空間意味論)が援用されました。バフチンといえば、最近、ズーアカンプからたてつづけに翻訳本(文庫)がでましたので、紹介しておきます。
<Autor und Held in der ästhetischen Tätigkeit>
<Chronotopos> April 10 ドイツでは、クラナドよりカノン以前のエントリーで僕は、ドイツではカノンやエアよりも、きっとクラナドのほうが高く評価されるだろう、というようなことを書きました。
でもフタをあけてみると、どうやらそうではないらしい・・・。ここ数日、僕はいくつかドイツのオタク・サイトを巡回し、わりと熱心にドイツでのクラナドの受容を追ってみたのですが、あきらかにカノンの高評価のほうが目立つのです。むしろクラナドは二番煎じくらいにみられている。もちろん彼らじしんこのシリーズをプレイしたり観たりしたうえで、しかも三作品を比較したうえで、の話です。たとえばこちら。
自分の見立てがハズれたので、いろいろ考えてみたのですが、どうやら僕がすえた基準と彼らがすえる評価基準が、根本的に異なるらしいことがわかってきました。いずれにしても、このことを前もって想定できなかったこと自体が、僕の不明のいたすところです。
ところである知人から「そうはいっても彼らは特殊でしょ、日本みたいにサブカルを社会学的に論じる土壌もないんだし」と指摘されたのですが、まあたしかに日本にくらべるとドイツのアニオタというのはまだまだ特殊に(一般社会から)みられている。でもじっさいに彼らのエントリーを読むと、その批評眼はそうとうレヴェルが高くて、その作品分析力は少なくとも日本のオタクのそれを凌いでいるといってよい(上にあげたサイトをみればこれがウソでないことがわかるはずです)。社会学的にどれだけ有効かというのをべつとすれば、その精緻さと腑わけしてゆく忍耐強さには、真似できないものがあります。
以上のことを前提にして話をすすめるのですが、おおまかにいえば、僕のすえていた基準は精神分析的なもので、いっぽう彼らのそれは物語分析的だということです。僕の関心は、「ボク+きみ」という最小単位がいかに「象徴界」とかかわるかということにむけられていて、「象徴界」との関与がミニマルであるほどよい、「象徴界」を自覚的にすっとばすところにこそ、いわゆるセカイ系の機略があると考えているので、その意味でクラナドはダメなのです。学校の友人、知人、家族との調和までもがもちだされる点において、まったく反動的です。しかしドイツでは、そうした公共性への期待がまだまだ強いし(ハーバーマスがFAZでまさかの健在)、したがって「象徴界」をどううまく設計・修正してゆくかに努力がはらわれている。だから相対的に、カノンよりはクラナドのほうが支持されるだろう、と僕は結論したのでした。
しかしよく考えてみれば、公共性が強固に存在し、そのための議論や知的コストがおしまれることのない国で、公共性の物語がうけるわけがない。それはごくありふれたもの、キッチュとして映るだろう。「二番煎じだ」という指摘は、むしろここに発しているように思われます。そして日本でクラナドのほうがうけるのは、ほんとうはもうどこにもない公共性とファミリー・ロマンスを、それが見事に演じきっているからです。
そうなれば、彼ら(ドイツの)オタクたちの受容のしかたが物語分析的なものにかたむくのも自然なことです。「村上春樹、アニメやマンガが海外でうけるのは、そこに構造しかないからだ」といった人がいましたが、じつに彼らは僕には偏執的とみえるほどに構造に執着する。ジャンル、語り手、配役、フラグ、ストーリー展開、時間配分、プロット(機能)、空間、モティーフ、などなど。彼らの分析はそうした語彙であふれている。そしてそれらがいかに有機的・計算的・効果的に組みたてられているかが彼らの判断基準です。このうち、ニコ動や日本のブログで目にするのは、せいぜいキャラクターとフラグくらいでしょう。同じクラナドでも、みえている風景はこうもちがう。といっても、僕はべつにドイツと日本のちがいをいまさら強調したいのではない。そうではなくて、ひとにものを見せるのは、強いられた環境だということ(僕たちのばあい公共性のなさ)、人間はしょせん見たい風景しか見ないが、しかしその「見たい」ということも、じつは強いられたものかもしれないということです。 |
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