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October 31 仲間が・・・足りない。みなさんこんにちは。こちらは紅葉もおわり、濃いめのコーヒーがいっそうおいしい季節となってきました。さいきんは、コーヒーとワッフルとハリボで生命をつないでいます。どこかウィーンにでも現実逃避したいところです(イミフ)。
ところで! そちらではもうすぐ文学フリマですね! こういうのを眺めていると、ああ、アカデミックってやっぱだめだな、と痛感します。というより、やるべきことはまだまだたくさんあるな、と。だれも読まないし読ませようともしていない大学の紀要とかに論文を発表するより、文学フリマの読者を意識してエッセイや評論を書くことのほうが、きっとずっと意味がある。
たとえばげんに カール・シュミット『パルチザンの理論』を援用してトーマス・ベルンハルトの『消去』を論じたり している人がいます。こういうことを実践している人から、「おい、独文のヤツはいったい何やってんだよ」と言われたら、どう答えるのか。
というわけで、志をおなじくしてやってもよい、という奇特な方を、これまで通り募集中ですwww いや、かなり本気ですよ! いっしょに同人誌をめざしましょう! (まずは同人ブログでもOK) October 30 写真でふたこと、みことOctober 27 ケールマン 「トーマス・マン賞」 受賞講演先日(18日)、ダニエル・ケールマンに「トーマス・マン賞」が授与された。その受賞講演の原稿が、きのうのFAZ(10月25日付)に掲載されている。こちら。
アメリカに亡命中のトーマス・マンを訪ねたスーザン・ソンタグ(当時14歳)の回想を引用することからはじめて、ケールマンは、さまざまのトーマス・マン作品にふれつつ、『ヨセフとその兄弟』こそがマンの最高傑作だと喝破する。そしてこう続ける、戦後ドイツ文学はしかし『ヨセフとその兄弟』の真価を認識できないままに「悲しく始まった」のだ、と。
読むべきものを間違えている― ケールマンはそういっている。ここにはあきらかに戦後におけるドイツ文学の失速ないし窒息へのいらだちが表明されている。
ケールマンについてはこのブログでも再三ふれているので経歴などをふりかえることはしないが、今回の彼のいらだちに、僕はある変化をみとめる。つまり、現代ドイツ文学をひきうけるという大きな気概がなければ、「悲しく始まった戦後ドイツ文学」などということはいえないはずなのである。
これまでもケールマンは現在を代表する作家と目されてきた。が、それは多分に読者の側からのこの若い作家(1975年生まれ)への「期待」であったようにおもう。文芸を牽引する存在にまで育ってほしいという願いであったとおもう。しかし今回の講演原稿を読んでつよく感じるのは、いよいよ期待は期待である必要がなくなったということである。つまり、ケールマンはここであきらかになにか大きなものを背負おうとしている。背負えるのだという自恃がある。
注意ぶかく読めば、彼のいらだちが具体的に何に(だれに)向けられているかが分かるだろう。マンに対する無理解(アドルノ、ライヒ=ラニツキ、そしてソンタグによる)に言及するとき、不穏な空気が生じている。戦後ドイツの言語空間はだれのものであったか? 僕はこの「不穏さ」をたかく評価したい。自恃なしに、それは不可能なはずだからである。トーマス・マンを読み「治す」こと(とりかえすこと)。それはおそらくケールマンにとって、あの「悲しみ」を終わらせることだ。そしてあの失速を、加速にきりかえることなのである。 October 26 ベルリンの闘い ― Call of Duty: World at War『Call of Duty: World at War』 がまもなく欧州でも発売になります(11月14日)。主軸は 「ベルリンの闘い」 と 「大東亜戦争」 で、二部構成となるようです(ただし前者はソ連軍の視点、後者はアメリカ海兵隊の視点)。ということは・・・ヘタリア抜きですね、わかりますwww 前作 『Call of Duty 4』 は こんな感じ。 October 24 シュテファン・レムラー(Trio)がちょっとだけオバマに似てる件ドイツのバンド Trio の、あまりにも有名な一曲 『Da Da Da』 (1982)。 Twist and Shout が鳴ってますwww 26年前とは・・・思えない。
Trio のばあい、歌詞も楽器の数もミニマルなんですね。で、ふと思ったのですが、おおきく見るとドイツの音楽は戦後、電子音楽とかテクノ系に本領をみいだしてゆくわけです。「こえ」 とか 「うた」 は最小限に切り詰められていって、メカニックに中性的なもの、システム美だけが前面に出てくる。その理由として、ドイツ語がポップスというジャンルに乗りにくい=相性がわるいからだ、と説明されることが多いけど、ほんとうにそうなんでしょうか? 僕にはこれは、戦後ドイツにおける「こえ」の抑圧、そのひとつのあらわれと思えてしかたがない。「シャウトすること」は、ドイツでは容易にプロパガンダを思い出させたであろうからです。 ニーチェを感情すること<ニイチェを理解することは、何よりも先づ、彼の文学を「感情する」ことである。すべての詩の理解が、感情することの意味につきてるやうに、ニイチェの理解も、やはり感情することの外にはない。そして感情するためには、ニイチェの言葉の中から、すべての省略された意味、即ち彼の慣用する音楽術語で言ふ Con moto(思ひ入れ)の部分を、自分で直感的に会得せねばならない。そして此処に、彼の理解への最も困難な鍵がある。たしかに人の言ふ如く、カントの哲学も難解である。特に僕等のやうな「柔軟な頭脳」の所有者にとつては、あの幾何学公式のやうな書体で書かれた「純粋理性批判」の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と同じく判然明白に解つてしまふ。カントに宿題は残らない。然るにニイチェはどこまで行つても宿題ばかりだ。ニイチェの思想の中には、カント流の「判然明白」が全く無い。それは詩の情操の中に含蓄された暗示であり、象徴であり、余韻である。したがつてニイチェの善き理解者は、学者や思想家の側にすくなくして、いつも却つて詩人や文学者の側に多いのである。> 萩原朔太郎 『ニイチェに就いての雑感』 より
October 23 ドイツでPSPにしようかDSにしようか迷ったとき「PSPとニンテンドーDS、どっちを買うべき?」という質問をよく見かけますが、機能とか用途とか、まあつまり目的によってひとそれぞれなわけです。あっさり両方買ってしまうのが一番はやいわけですがwww それはともかくドイツの話をすると、PSPソフトは翻訳を放棄していて、つまりは英語しかありません。SONYの怠慢です。これに対してニンテンドーはきっちりドイツ語版ソフトも出しているので、DSのほうがそういった意味では(ドイツ人にも)評判がいいです。というわけで、ドラクエとかFFとか脳トレものとかを<ドイツ語を勉強しつつ>楽しみたい場合は、DSがだんぜんおススメです(僕のPSPはここ半年くらい眠ったままです 爆)。 October 22 都会のアリス(ヴッパータール、物語そしてCAN)
ヴェンダースの映画 『都会のアリス』 (1974) より。1:15 あたりから、ヴッパータールのモノレールのシーンとなります。それにつづくアリスに物語して聞かせるシーンは、無条件にうつくしい。音楽はこのブログでもすでに何度か言及しているCANです。 October 20 早稲田文学 10時間連続公開シンポジウムきのう早稲田大学でひらかれた 『早稲田文学 10時間連続公開シンポジウム』 を、ぶっつづけで視聴中。おもしろいけど、な、ながい・・・ねむれない・・・orz エキストラポッドはたしかにすっごくサプライズ。でも仲直りできてほんとうによかったね! それにしても。小林秀雄はやはり無敵。「売れなくてもいいから質のいいものを・・・」なんていうのはやっぱり言い訳だしウソなんですね!
>『早稲田文学 10時間連続公開シンポジウム』
>「文芸批評と小説、あるいはメディアの現在から未来をめぐって」 >【パネリスト】
>東浩紀、阿部和重、池田雄一、宇野常寛、大澤真幸、大森望、佐々木敦、新城カズマ、 >千野帽子、豊崎由美、中森明夫、福田和也、前田塁、山本充、芳川泰久、渡部直己
>【日時】
>2008年10月19日(日曜日) 10時開場、10時30分開演予定、20時30分終了 >全5プログラム(予定)、プログラム間に休憩、入退場可 >1. 文学メディアの現在 (東、宇野、佐々木、中森、山本、前田) >2. 日本小説の現在 (東、渡部、池田、大森、新城、前田) >3. 小説あるいは文芸批評の今日的役割について (東、宇野、福田、千野、大澤) >4. 読者と小説 (東、千野、豊崎、芳川、中森、前田) >5. 総論 >エキストラポッド (東浩紀 × 阿部和重) October 18 現代ドイツ作家はなぜDDRへ向かうのか?
89年にベルリンの壁が崩壊し90年に東ドイツが事実上消滅したとき、どんなかたちであれ旧東ドイツをふりかえることはある種軽蔑の対象となった。それは東西が「統一」したのではなく西が東を「吸収」したからであり、面倒をみてやっているのに旧体制を懐古するとはなにごとかというふうに、ふりかえることはすべて「オスタルジー」とひとくくりにされて揶揄されたのである。タブー視されたとまでいえば言葉として強すぎるが、想い出すこと、旧東ドイツ(以下DDR)に関する言説が抑圧をうけたことはたしかである。
ところで、冷戦がおわりコソボ問題が「解決」しユーロが導入されてEUが着々と拡大・安定し、ある意味で「凪ぎ」の状態に入った現在のドイツで、DDRに照準を合わせる文学作品が量産されている。量産されている印象があるといったほうがかえって正確かもしれない。たとえばマルセル・バイアーの『カルテンブルク』、あるいは先日ドイツ書籍賞をとったウーヴェ・テルカンプもDDRを書く作家である。なぜそういう印象かといえば、DDRは歴史として遠ざかりそしてその生活圏における痕跡もますます減少し記憶は薄れてゆくはずであるのに、それを書く作品は減らないからである。私は出版点数といったデータよりもむしろこの実感の方を信じたいが、それにしてもなぜDDRなのか。
日本では中上健次の死とともに文学の役割はおわったということが言われている。中上健次は92年に死んでいるから冷戦終結とほぼ同時だが、彼の死が文学の「終わりの終わり」であるのは、「路地」の消滅(終わり)を書くことで文学をおこなってきたその人が喪われたからであり、あったものが失われてしまったという驚き=「差異」そのものが均されてしまったということを意味している。そこには作家を「書くこと」に向かわせるような起伏も異質さも距離も障害もない。(歴史がおそろしく不思議なのはこの光景が「豊饒の海」最終巻『天人五衰』のおわりに記された空間・世界に酷似していることである。「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまったと本多は思つた。 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる」。はたして中上健次は三島をのりこえたのかのみこまれたのか)。
差異の消滅(近代というマッチポンプのデフェクト)によるこのような90年以降における一種の真空状態は、現象的にちがいがあるのはとうぜんのこととして、ある程度まではドイツにもあてはまる(あてはまってしまうということ自体がマッチポンプのデフェクトをウロボロス的に証明している)。
いうまでもなくドイツは東西冷戦の前線であり、ベルリンの壁はイデオロギー闘争の最前線であった。戦後のヒステリックなまでの脱ナチ化はドイツ現代思想を窒息させた(不可能にした)が、それとは対照的にフランスがゆたかな思想を量産できたのにはその銃後的立場ということもあったとおもう。いずれにしても先にのべた流れ、つまり壁崩壊からEUの安定化までとは、かかる緊迫した前線が消滅してゆく過程を意味している。ドイツは、そしてヨーロッパはもはやその圏内においてイデオロギーを闘わせるつもりはないしその必要もない。ドイツという国はもはや存在しない。フランスも存在しないと考えたほうがいい。あるのは「EUにおける」ドイツでありフランスだけである。EU自体がひとつのイデオロギーなのであって、ドイツやフランスが単独に思想を生みだすことはもはやないだろう。
現在のドイツがEU下での「調整の段階」にある、つまり凪ぎの状態にあるのだとすれば作家にはなにができるのか。作家をして「書くこと」へ向かわしむるような「差異」が失われてしまいしかしそれでもドイツ語で書こうとするとき、あるいはドイツを書こうとするとき、向かうさきにぽつんとただひとつDDRが見えてくるということは論理としても実感としてもよくわかるのである。さきに名をあげたバイアーは西ドイツ、テルカンプは東ドイツの出身だが、彼らをふくめ「書くこと」に意識的であろうとする現代ドイツの作家たちはみな「DDRという最後の差異」なしには問題を構成することができないし、方角を定位できない。彼らは彼らの現在をそのまま書くことができない。現在を書くためにはDDRという、すでにはるか遠ざかったものでありながらそれでもいちばん身近な差異に反射鏡を求めなければならない現実がここにはある。書くための抵抗のために(摩擦抵抗なしに人はそもそも書くことができない)、DDRが召喚されるのである。
したがっていまDDRが呼び出されるのは懐古がゆるされたからでも抑圧が解かれたからでもない。それは新しいべつの抑圧によって外にしようもなく採らざるをえない方途のようなものだ。彼らはDDRの回顧(≠懐古)を強いられている。強いているのはEUというイデオロギーであり、それを生みだした機制=歴史である。では日本の作家たちはいま、なにを強いられているのだろうか。そして、歴史による復讐が三島由紀夫の呪縛じたいにも復讐するということははたしてありうるのだろうか。 October 16 フランクフルト・ブックフェア2008世界さいだいの本の見本市、フランクフルト・ブックフェアが今年も開幕しましたよー。
なんだかみなさんとても楽しそうです。本が好きでたまらない!って感じが出てますね。
「え?本を盗まれたら?そんときはしょうがないっすね」的なことをみなさん口にしてます。 独訳バークヴッパータール中央駅からバスに乗って席につくと、きっと学生だろう、すがたのいい女の子が、バークの 『崇高と美の観念の起原』 をさりげなく読んでいた。ドイツ語訳 『Philosophische Untersuchung über den Ursprung unserer Ideen vom Erhabenen und Schönen』 である。
なんというか、うちのめされるというか、かなわないな、とおもう。「あなたが何を食べているか言いなさい、そうすればあなたがどんな人間か当ててみせよう」というブリア=サヴァランの名ゼリフにひっかけて、福田和也が、何を読んでいるかでどんな人間かがわかるのであり、着るものとか外見のセンスを気にする人は多いが、どんな本を読むか、その内面のファッションにこころをくばる人はじつに少ないと書いていた。(講談社新書 『悪の読書術』 )
ことわるまでもなく、バークのあの本は、「あら、ちょっと読んでみようかしら」と気軽に手にとれるようなところには置いてない類のものである。カントやシラーの美学・崇高論ならともかく、ドイツでも学生が読むような本ではまずない。と書いたからって、べつにその教養の雰囲気とかに感動しているのではなく、ごく単純に、そのセレクトがかっこよすぎるということだ。
ところで僕は、バークがドイツ美学の流れでどういうふうに受容されたのか(あるいはされなかったのか)、不勉強でよく知らない。斬られないように、勉強、勉強。 October 15 ウーヴェ・テルカンプすでにmauさんがエントリーしているように、ウーヴェ・テルカンプの小説 『塔』 (976頁!)が、2008年<ドイツ書籍賞>をゲットしました。 『カワセミ』(Der Eisvogel)の作者だったのですね・・・。
書評もたくさんウェブ上に出てますが、以下からは、作者へのインタヴュー( 『塔』 執筆の裏側など!)や、作者自身による朗読を視聴することができます。ここから。 優しいインテリのための嬉遊曲ときどき、フロイトの生誕地をモラヴィアの「フライブルク」としてあるのに出くわす。もちろんこれは「フライベルク」のあやまりである。また、これもたまに見かけるが、フロイトと共著で『ヒステリー研究』を出したのは、「ブロイラー」ではなく、ヨゼフ・「ブロイアー」である。フライブルクはドイツの町だし、精神医学者ブロイラーは「オイゲン・ブロイラー」で、まったくの別人だから、どうでもいいミスではありえない。
また、ニーチェの発掘者として知られるデンマークの文学史家ブランデスを「ゲオルク・ブランデス」と表記している人が多いけれども、これは「ゲーオア・ブランデス」が正しいだろう。あと、シャルコーとならんで言及されることの多い「べルンハイム」だが、フランス人なんだから、これは「ベルネーム」のあやまりである・・・・・・・・・・。
こういうのが、学術論文や単著に、平然と載っている。学生のレポートならまだしも、学者(=知のプロフェッショナル)としてはどーなんでしょうか。それってどーなの主義。つい先日配信の講談社メールマガジンで、大塚英志がこんなことを書いていた。以下、一部引用。
大学生の教養なり学力が崩壊した、という言い方は今に始まったことではな
い。(中略) 大学の先生たちは大学生の教養のなさを憂え嘆きつつ、暗に自 分たちの頭の良さを自賛しているような感じがして、そこがみっともないと思
った記憶はぼんやりとある。
まあそもそもがぼくのようなサブカルチャー出身者に「大学教授」の肩書き
を大学自らが乱発していること一つとっても、大学の先生の「学力低下」の方 がはるかに問題なのではないかと思う。こういう言い方をするとまた嫌われる かも知れないが、十年ほど前、今の神戸の大学とは違う大学で民俗学の授 業を担当することになって、大学を出てからほとんど目を通していなかった学
会誌をまとめて読んで、そこに何も新しい前進がないように思えて驚いたこと
がある。
それに対して改めて読み直した柳田國男はやはり化け物だし、ぼくの先生 である千葉徳爾もやはり化け物だ、とつくづく思う。同じように仕事の全体像を
見た時、ぼくのもう一人の先生である宮田登にしても六〇年代安保の世代に 相当するけれどちょっとかなわないな、とは思う。
けれどこれが全共闘世代の学者になると、不穏当な言い方をすることが許 されるなら、ぼくが今からでも多少「学問」に専念すれば何とかなりそうな気が
する。何というか、その人の「学問」や「教養」の幅が見通せてしまう大学の先 生が、年齢が下がれば下がるほど増えていく印象がある。それは文学でも社
会学でもそうなのだけれど、団塊世代の学者はあまり勉強していない人が多 いような気がしてならない。同じことは社会人にも言えて、例えば新聞の論説
委員クラスがこの世代になった時点で新聞のレベルがとてつもなく落ちた気
がしてならない。
彼らは学生運動のどさくさであまり授業がなかった時代の学生だから当然 勉強はしていないし、しかも彼らはこの国の歴史の上で最初の「まんがを読
む大学生」だった。大学が文字通り大衆化した時代の若者であることは忘れ
てはならない。島耕作が社長になったようにそのあたりの世代がこの国の経
済や政治や学問の中心にいるのである。そんな彼らに「学力」とか「教養」とか
言われてもさあ、と思う。
全員斬りですね、わかりますwww でも柳田國男をもってくるのは反則だぉ。 October 13 デスペレート、あるいはハイネの楽園吉本隆明の『共同幻想論』を熟読玩味していて、『水没ピアノ』のことが思い出された。発表当時から注目されていたし、また『ファウスト』最新号には福嶋亮大による『水没ピアノ』論が載ったりと、すでに有名な作品だから、読んだ人も多いと思う。なので内容紹介はカットする。
さて、なかに次のようなエピソードがある。「僕」と、「僕」にとってかけがえのない伽那子と、伽那子の兄の三人でパラダイスをつくってみればどうなるか、という思考実験である。
「例えば、この林の周囲にバリアを巡らせたと仮定しようか」こんな感じの導入だった筈だ。「小さな林、その中心には深くて綺麗な池。楽園にはうってつけって訳だね。ここには鳥と虫と伽那子と僕と、そして君しかいない」そう云ってお兄さんは、ボール転がしを続ける僕を指差した。「その上、バリアを巡らせてあるから外部からの攻撃にだってびくともしない。これだったら安心出来るかな?」
「うん」確か僕はすぐに頷いた筈だ。「お兄さんはそうは思わないの?」
「残念ながら。だってさ、この楽園には三人しか人間がいないんだよ。どうやって子孫を残すんだい?」
「子孫?」
「楽園なら未来に滅亡なんてしちゃいけないんだよ。いつまでも持続してこその楽園なんだから」
「まあそうだけど……」
「僕と伽那子は血が繋がってるから、子供は作れない」お兄さんは池の前に座る伽那子を一瞥した。あの距離なら僕達の会話内容が耳に入る事はないだろう。「だから君が伽那子との子供を作るんだ」
「ぼくが?」
僕はその言葉に驚いて動きを停止させた。
「だけど君と伽那子との間に出来た子供に種を植えるのは誰がするんだい? 勿論、君はもう無理だよね。血の繋がりがあるんだから。僕だって半分繋がってるから無理。子供同士も血が繋がってるから無理。ほうら、楽園は早々に崩壊してしまう訳だ。世の中は聖書みたいには行かないからね。近親相姦の世界なんておぞましいもの」
「それじゃあ、ここにもう少し人を加えたら……」
「それが唯一の解決策なのは確かだね。でもそれじゃあ楽園が消失してしまうよ。僕と君と伽那子。それ以外に一人でも人間が加わったら、あっという間におしまいさ」
「ああ……」その気持ちは痛いほど解った。「でも、それじゃあどうすれば」
「どうにも出来ないよ」
近親相姦の世界がおぞましいとされる(タブー視される)のが、共同幻想によるすりこみであることは、よく知られている。インセストは遺伝異常をもたらすというまことしやかな説にも、科学的根拠はない。
しかし、仮にその「おぞましさ」を克服できたとしても、伽那子の兄がいうような楽園は、やはり不可能である。この小説で「僕」は、伽那子やその兄とのミニマルな世界に侵入してくるものに対しては徹底的にこれを攻撃する人物として描かれているのだが、その衝動には、なにか過剰なものがある。「僕」の悲劇は、それくらいデスペレートに伽那子を思っているにも係わらず(あるいは、であるがゆえに)、バリアが築かれようが築かれまいがけっきょくは同じであるような「バグ」を、あらかじめ定められている点にある。つまり、伽那子を守るための暴力というとき、おそらくそのエロスは、ほんとうは「快楽原則の彼岸」へ駆け抜けるための口実でしかない。「僕」はいささかもそう望んではいないのに、なぜかタナトスがエロスを過剰に上回ってしまう。バリアによって、そして「おぞましさ」の克服によって仮に楽園が成立したとしても、「僕」じしんの破壊衝動が、内側からそれを葬りさるだろう。そしてそのことが(ぼんやりとではあれ)自身にも予感されるからこそ、「僕」は兄による思考実験を「こんな感じ」としてしか思い出せないし、楽園に対して散漫にしかリアクションできないのである。
ハインリヒ・ハイネが次のように書くとき、それは、「僕」の楽園にユーモアを描き入れたものとなるだろう。
わたしの心情はごく穏やかなものだ。わたしが願うのは、つつましい小屋、藁葺きの屋根、ただし快適なベッドとおいしい食事、ごく新鮮なミルクとバター、窓辺には花が咲き、玄関さきにはみごとな樹木が数本といった程度のものである。愛しい神さまがわたしを幸福にしてくださるおつもりがあれば、この木の枝にわたしの敵を六人か七人ほど吊り下げるという幸福をお与えくださるだろう。そうすればわたしは胸をときめかせて、これらの敵が生前にわたしに加えたすべての不正を、死の直前に赦してやることだろう。汝の敵を赦さねばならないというのはたしかだ。ただし首を吊った後になってからのことだ。(訳:中山元)
ハイネにとって、楽園がそもそも可能であるとすれば、それは吊り下げられた死体とともにでしかなかった。こういう熾烈さを、僕たちは彼の思想などといったものに還元できるだろうか? おそらく、ハイネは、この楽園では、泣いてもいないし、微笑んでもいないのである。 October 12 テオクラシー「人の作つたみちではない、天地自然のみちでもない、ただ一つの このみち といつた宣長のことば
を、今日の思想界の俗語にかえていうことは、小生の一つの務めだつた」。
保田與重郎
October 10 ハーバーマス VS シュミット――パウル・クレーをめぐってハーバーマスが パウル・クレー を鑑賞する旅に出たようです。しかし、もぐもぐと何を言っているのか、よくわかりません。ベンヤミンが 「もんやもん」 になってます・・・orz ストレスがたまったので、ハラルト・シュミットでもみて解消することにしました。 あっはっは! (←傑作VTRはここをクリック) ピカソもマティスもドイツ人だったのかwww とにかく、勝負はハーバーマスの惨敗。 October 08 ドイツにおける新海誠『ほしのこえ』のマンガ・バージョンがこの夏ドイツでも発売された。上の写真は、雑誌 『AnimaniA』 でそれを紹介してあるページ。
けれども、どうもドイツでは新海誠の受容がおそいというか、かんばしくない。たとえばこれは、最近はじまった第二期 『Clannad』 がリアルタイムで受容され、議論されているのと対照的である。ここで僕が思いだすのは、CG映画 『ファイナル・ファンタジー』 で、これはたしか2002年はじめごろドイツでも公開されたのだけど、評判はまったくよくなかった。映画館は「がらあき」だった。
おそらく理由は、新海誠の背景描写にある。よく知られているように、新海誠は人物をあくまでキャラクターとして提示する(つまり神話要素として提示する)いっぽうで、空や地平線や街並みといった背景を、きわめて自然主義的にえがいている。そのミスマッチをとりあげて、キャラクター描写の「つたなさ」をいうひとがいるけれども、それは完全にまちがっている。新海誠に関して一番だいじなのはキャラクターと背景の乖離なのだから。
で、ドイツでも、オタクが求めているのは神話であって、自然主義的な描写ではない。その傾向は日本よりも強いと思われる。『ファイナル・ファンタジー』 のリアリティは、日本でもうけなかったが、ドイツではもっとうけなかった。あそこまでしっかりと、細部まで提示されてしまうと、神話的想像力が発動するスペースがなくなるからである。
ただ、上に書いたように、新海誠の本領は、背景にあるのではなくて、それとキャラクターを不自然にならべてみせることにある。神話と脱神話をならべたことにある。したがって、『ファイナル・ファンタジー』 のつくりとは根本的に異なるのである。
にもかかわらずドイツで新海誠が自然主義的作家としてみられているとすれば、『ほしのこえ』 に関して、そのアニメDVD(オリジナル)よりもさきにこうしてマンガ・バージョンが売りに出されるのもうなずける。キャラクターと背景を分離して「視る」こと、それぞれがまったくちがうコンテクストで成立していることに気づくまでもう少し時間がかかるということなのかもしれないし、永久にそんな作法は根付かないかもしれない。これははっきりいって日本人の僕にはわからない。
ただ、ドイツでの評価をざっと見渡してみて、いちばん多いのが「キャラクターが描けていない」、「キャラクターが不自然」という意見であることだけ、ここにこうしてメモしておく。 October 07 日本におけるハイデガーカントの『純粋理性批判』は4度、ヘーゲルの『精神現象学』は2度、日本語に訳されているが、ハイデガーの『存在と時間』は6度にものぼる。ハイデガーが日本で「うける」わけは? 西谷啓治ですよね、これ。まちがってたら誰かおしえて。 |
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